第七章 道義国家
聖人政治
古来、人類は為政者の暴政悪政に苦しめられてきた。
治める方も治られる方も人間である。為政者の善しあしによって直接苦しめられるのは、その国の国民であり民である。そのため人間として立派で人格者である聖人や哲学者が為政者になることが理想の政治形態であると考えられてきた。二十一世紀の現代においてもいまだに独裁者が存在し、その国民への被害は大きい。民主主義国家といえど、戦争紛争という暴政悪政は後をたたない。
西郷も『遺訓』の中で尭・舜の治世に言及していることから見ても理想の政治、理想の国家について考えていたことが分かる。西郷は、いかにしたら国民が安心し安定して生活することができるかということを基点に、そのための政治とは、国家とはどうあるべきかと考えていた。日本の国家公務員は年齢制限があるだけで日本人であれば、 一種、二種、三種と区分された試験に合格することで誰でも国家公務員になれる。この点では平等であり公平であるといってよい。しかし、スタートラインは同じであるが、入省してからの昇進の速度は全く違う。
一種合格者でなければ百%といってよいほど各省の長官である次官にはなれない。
入省してのちは不平等と不公平な人事となる。各省庁の幹部は一種合格者で占められ、事務次官のポストを入省年度に応じて順送りで手にしていくという慣習になっている。
この項は聖人政治というタイトルなのでその視点で考えてみる。人間が立派であるとか、人格者であるといったことは、選考の対象にはならない。それよりも重要ポストヘの就任経歴や大過なくすごしたかどうかや、予算を獲得し省益に貢献した、しないといった類のもので選考され次官の地位につく。
戦前の日本の海軍省や陸軍省においても、能力実力の有無ではなく、海軍大学や陸軍大学の何期卒であるか何年入省であるかが昇進選考の主な基準であったことが、無能な将軍を輩出し、敗戦の一因となったともいわれている。最近の社会保険庁の年金問題、農水産省の汚染米問題、防衛省の不正など今も昔も公務員の不正や腐敗は実に多い。このようなことに対して西郷は、人間の本質にまで入り込んだ対応と制度改革をしなければならないと述べている。世の中、 一般の人は権力・権限を持ったら、七、八割は奄美大島の代官のように権力をたてにし、権限を振り回すものである。これが一般人の普通の状態であるという前提のもとに制度やシステムを構築すべきであると西郷は述べている。国家一種に合格しても普通の人なのである。決して「仕末に困る人」ではない。普通の人が高位高官になれば、代官のようになってしまうのが普通である。
聖人政治は望むべくもないが、あたかも聖人が政治や行政を行っているかのような制度やシステムをつくり、それが常に改善され清流の流れるごとく止まることがなければ、それはまさに聖人政治の実現ともいえるのではないだろうか。