第一章 西郷隆盛
2 民主主義論者 西郷
「その翌日、私は京都の情勢を聞くために、西郷に会いに薩摩屋敷へ行った。西郷は、現在の大君政府の代わりに国民議会を設立すべきであると言って、大いに論じた。私は友人の松根青年から、反大君派の間ではこうした議論がきわめて一般的になっていると聞いていたが、これは私には狂気じみた考えのように思われた。また西郷は、政府は大坂と兵庫の貿易の全部を日本人豪商二十名から成る組合の手にゆだねて、自らこれを独占する計画をたてていると私に漏らした。それは疑いもなく一八四〇年の阿片戦争以前における広東
の旧い組織の模倣であったのだ。この情報が長官(イギリス公使 パークス)の耳に入るや、彼は烈火のようにおこって、直ちに主席閣老に会い、この計画を放棄することを主張した」
西郷は二日続けてサトウと会っている。数日後、今度は後藤象二郎がサトウに会いに行った。
「晩飯のあとで、後藤が政治問題を論じに艦へやってきた。彼は、イギリスを模範にして国会と憲法を作ろうという考えを述べ、西郷もこれに似た見解をもっていると言った。そのことは、私たちもすでに大坂で承知していた」
「後藤は、それまでに会った日本人の中で最も物わかりのよい人物の一人であったので、大いにハリー卿の気に入った。そして、私の見るところでは、ただ西郷だけが人物の点で一枚後藤にまさっていたと思う」
西郷の民主主義論は、後藤のそれのように新しい時代や体制に合わそうと取って付けたようなものではない。すでに沖永良部島の「囲
い牢」にとらわれ罪人の身であるとき、民主主義や議会や憲法という言葉は知らなくとも、その発想思想は十分に持っていた。島役人土持政照に西郷が与えた「与人役大体」によく表れている。西郷は強い思いをもって「国民議会を設立すべきである」と論じたのである。この思想はいかに生まれたのだろうか。西郷が流されていた沖永良部島和泊町には、復元された「囲い牢」がある。横に「敬天愛人発祥の地」の碑文が建立されている。一年六カ月間の牢舎暮らしで千冊に及ぶ和漢洋の書物を読んだという。自身、「学者になりそうなあんばい」と述べている。封建制度における領主と領民。奄美大島配流時代に見た、藩庁による島民への苛政。島内にあった家
人・ヒザの奴隷制度。
領主の存在意義は何か。役人の存在意義は何か。天皇の存在意義は何か、まで思索して「天」の思想を導き出している。「天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心をもって人を愛するなり」という、西郷が達した「敬天愛人」の思想をもってすれば、民主主義は必然のことなのである。議会制民主主義の国から来たイギリス人アーネスト・サトウに西郷は、「敬天愛人」の思想からみた国家観や国家と人民の関係そして統治機構などを大いに論じたのであろう。
西郷の自論は、十九世紀の立憲民主制、二院制民主主義のイギリスよりはるかに進化した民主主義であったかもしれない。それでサトウは「私には狂気じみた考えのように思われた」と述べたのであり。極東の封建時代に生きる反政府側の人間からは想象さえできない民主主義論だったのだろう。幕末といえど封建時代の最中、西郷は薩摩藩の藩士である。他者には理解されず口に出せないことを、日本語の堪能なイギリス人の青年に満腔の思いを込めて論じたのであろう。
天の目で見ると国民は天の子になる。時代や国家体制の違いで領民、人民、臣民と称されようと、天にとっては子なのである。母親がわが子を誰彼と区別することなく慈しみ養い育てるように。天もまた同様の思いをもって国民に接し、一人ひとりが良き人生を歩めるように取り計らわなければならない。ただ、天は自らこれらのことをすべてできないので、天子に代行させている。さらに、天子は諸大名に代行させ、諸大名は諸役人に代行させているのだ、と西郷は土持政照に説明している。この天の意思に最も近いのは現在においては民主主義と言える。徳川幕府の幕藩体制が民意を得られず、民意に添えなければ、新しい体制を求めるため討幕は自然の流れとなってくる。
一体、国家形成の目的は何であろうか。人は様々な国家の国民として生まれる。生まれた子を国家は天の意思で接してくれるだろうか。天の意思に少しでも近づこうと努力している国家だろうか。そして、その国家に近づくための方法はないのか、仕組みはつくれないのか。「敬天愛人」の思想をもつ西郷は常に思索していた。サトウの日常生活を紹介してみる。このころサトウは江戸に一軒家を借りている。「私の食事は純日本式で、万清という有名な料理屋から運ばせていた。
もっとも、イギリスビールだけは別だったが。家族といえば、第一に用人(前に述べた会津の侍野口)で、この者の役目は一切の管理、勘定の支払い、必要な修繕の手配、直接私に会う必要のない用事で来る人々との応接などであった。その次ぎは、食卓に侍したり小間使として立ち働く十四歳の少年で、これは侍階級に属していたから、外出の際には大小の刀を差す資格があった。それから三十ばかりの女であるが、この女の務めは床を掃除したり朝晩の雨戸の開閉、それに衣類のボタンを縫いつけたりする雑用だった。
家具類はほとんどなかったので、この女にとって、塵払いなどをする面倒はあまりなかった。私はまた、近所の使い歩きや、家族全体のための飯たき、そのほか万端の雑用に役立つような男を一人雇うはずであった。最後は門番で、これは庭の掃除、馬の世話、馬丁などをやった。私が徒歩、あるいは騎馬で外出する時には、二人の騎馬護衛があとからついて来る。この護衛は、この年の初め陸路大坂からの旅をした際に大君政府の命令で私に付いて以来、ずっと私の警護にあたっていたのだ。以上のように、私は自分の希望通りの一家を構えたので、日本語の勉強と日本人との親しい交際に打ち込んだ。
おかげで、日本人の思想や見解に精通するようになって来たので、全く心が楽しかった。私の日記には、慶応三年十一月六日に新橋付近の三汲亭で中村又蔵と一緒に晩飯を食べ、もちろん芸者が酒のお酌をし、音楽や陽気な会話に打ち興じたと書いてあり、七日には、外国語学校(開成所)の教師柳河春三と一緒に霊厳橋の大黒屋で鰻飯を食べたとある。政治の大きな変動に伴って、いろいろ政府の人々と会談するハリー卿の通訳をつとめたり、公文書を日本語から翻訳したり、日本語に訳したりする仕事が山のように私にかかってきていた。そのために、朝の九時から夜の九時まで、食事の時にほんの少し休むだけで、仕事にかかりきることがしばしばであった」