第一章 西郷隆盛
4 革命家
明治維新は徳川幕府封建体制を近代国家に変革するという革命であった。戊辰戦争は維新革命戦争である。「大きな時流とそれを踏まえて立つ捨て身の見識と力とがひとつになってこそ、歴史ははじめてその人のために英雄の扉を開いて通す」という。征討大総督参謀として官軍を率いて進軍する西郷の様はまさしくこの言の状態である。毛沢東は「革命とは客を招待してごちそうしもてなすということではない。ひとつの階級がひとつの階級をくつがえすという激烈な階級闘争である」という意味のことを述べている。後世の歴史家は、この間における西郷の軍事的武将としての才能は等しく認めている。しかしながらそれは直線的なものであり、豪放で人情的で、風貌とも相まって柴田勝家的であったと評している史家が多い。しかしそれは誤った見方である。西郷はこの戦いを革命戦争と位置づけ、時勢を活用し知略を尽くし、策略も用いると、戦いに勝つための覚悟を示している。むしろ交渉事や知略においては秀吉的であり、決断の果断さにおいては信長的であったと言ってよい。次の三つの『遺訓』は西郷が実践の経験から得た言葉であろう。われわれが事業を成す場合や人生で出合う様々な局面で活用できるので掲載する。
「作略は平日致さぬものぞ。作略を以てやりたる事は、其迹を見れば善からざること判然にして、必ず悔い有る也。唯戦に臨みて作略無くばあるべからず。併し平日作略を用ふれば、戦に臨みて作略は出来きぬものぞ。孔明は平日作略を致さぬゆえあの通り奇き計を行はれたるぞ。予嘗て東京を引きし時、弟へ向ひ、是迄少しも作略をやりたる事有らぬゆえ、跡は聊か濁るまじ、夫れ丈けは見れと申せしとぞ。
(【訳】 はかりごと(かけひき)はかねては用いない方がよい。はかりごとをもってやったことはその結果を見ればよくないことがはっきりしていて、必ず後悔するものである。ただ戦争の場合だけは、はかりごとがなければいけない。しかし、かねてはかりごとをやっていると、いざ戦いということになった時、うまいはかりごとは決してできるものではない。諸葛孔明(中国三国時代、蜀漢の丞相、誠忠無私の人)はかねて計略をしなかったからいざという時、あのように思いもよらないはかりごとを行うことができたのだ。自分はかつて東京を引き揚げた時、弟(徒道)に向かって「自分はこれまで少しもはかりごとをやったことがないので、ここを引き揚げた後も、跡は少しも濁ることはあるまい。それだけはよく見ておけ」とはっきり言っておいたということだ)」
西郷自身『遺訓』で人間の成長発展の根本を述べている。勇気や知恵や仁愛を身につけようと思うならば、古今の人物(歴史上のすぐれた人物)の事跡を研究して、彼らがどのようにしてこれらを身につけたのか学ばなければならない。そして自分自身の人生において学んだことを実践する。そうすれば彼らにできて何が自分にできないか、何が彼らにあって自分に不足しているかが分かってくる。この不足の部分を訓練修業して補えば、彼らに近づくことになり、求めるものが身についたことを実証できるのである。西郷もまた孔明の用兵における戦略、戦術や思想を研究して、成功に導くための原因と結果を明らかにしてこれを理解していたことがわかる。
「事の上には必ず理と勢との二つ必あるべし。歴史の上にては能見分つべけれ共、現事にかかりては、甚見分けがたし。理勢は是非離れざるものなれば、能々心を用ふべし。譬へば賊ありて討つべき罪あるは、其理なればなり。規模術略吾が胸中に定りて、是を発するとき、千仞に坐して円石を転ずるが如きは、其勢といふべし。事に関かるものは、理勢を知らずんばあるべからず、只勢のみを知
りて事を為すものは必ず術に陥るべし、又理りのみを以て為すものは、事にゆきあたりて迫つまるべし。いづれ「理りに当りて而る後に進み。勢を審かにして而る後に動く」○陳龍川、先主論の語 ものにあらずんば、理勢を知るものと云ふべからず。
(【訳】 物事は何であっても、必ず道理と勢いの二つがある。歴史の上ではこれをよく見分けることができるが、現在目の前の事については、なかなか見分け難い。道理と勢いとは二つとも離すことのできないものだから、よくよく心を用いるべきである。たとえば悪者があって、これを征服しなければならないというのは、そういう道理があってのことである。物の仕組みや、はかりごとが自分の心の中に定まっていて、これを発するとき、ちょうど非常に高いところにいて円い石をころがすようなのは、その勢いといってよいだろう。事に当たるもの、皆このような道理と勢いということをよく知らねばならない。ただ勢いばかりを知って事をなそうとするものは、必ず計略に陥るだろう。また、道理ばかりを知って事をなそうとするものは、ついには行きづまってしまうだろう。いずれにしても『道理をよく知ってから進み、勢いをよく見きわめてから動く』(陳龍川の先主論の語)というのでなければ、理勢を知るものということはできない)」
鳥羽・伏見の戦いで戊辰戦争の戦端は開かれた。幕府軍の総数は一万五千人から二万人、うち約五千人が京へ向け進軍していた。一八六八(慶応四)年一月三日、薩・長軍、およそ三千五百人の前線部隊と幕府軍の先頭部隊との間で戦闘が勃発した。実際、この戦闘は幕府対薩長軍の私闘であった。官軍が賊軍(幕府)を征討するという形にしなければならない。朝廷では征討戦とするかはまだ決していなかった西郷は理勢のうえからも明日は是が非でも朝議を征討に決する覚悟をし、日没頃前線の戦闘部隊に向け「賊徒追討の詔勅が出て、仁和寺宮が征討総督として御出陣になる」と伝えさせた。
翌日、緒戦での薩長軍の勝利が伝えられると朝議は征討に決した。仁和寺宮が征討大将軍に任じられ、薩長軍が錦旗をおし立てた官軍となったのである。これにより日和見の諸藩も続々と官軍に加わり、「是を発するとき、千仞に坐して円石を転ずるが如きはその勢というべし」の状況になった。そしてその勢いをもって江戸に攻め上ったのである。一八六八(慶応四)年一月三日現在の西郷が、二〇一三(平成二十五)年一月三日の視点から当時の歴史を俯瞰することはできない。
しかし現在のわれわれは書物を通して当時の事件を分析し、その原因を知り結果を見ている。同じように、西郷は過去の日本や中国の歴史を研究し、歴史上の事件の原因と結果を知り、そして良い結果へ導く流れを研究分析して、それをもとに未来の結果を予測し行動している。
強い思いによる決断は、それ自体未来を決定したことになるという。西郷はこの思いをもって戊辰戦争を戦っている。この戦争では、銃創による死傷者も多く(日本の外科医はどんな銃創でもみな縫ってしまうのでそれが原因で死ぬ者があった)西郷は朝廷に願い出て銃創の治術に熟練している英国公使館付の医師ウイリアム・ウイリスを招聘して負傷者の治療に当たらせた。また、戊辰戦争後(明治三年)ウイリスは西郷の招聘で鹿児島医学校兼病院の教師として赴任している。
「事の上にて、機会といふべきもの二つあり。僥倖の機会あり、又設け起す機会あり。大丈夫僥倖を頼むべからず、大事に臨みては是非機会は引起さずばあるべからず。英雄のなしたる事を見るべし、設け起したる機会は、跡より見るときは僥倖のやうに見ゆ、気を付くべき所なり。
(【訳】物事の上で、機会というべきものが二つある。まぐれあたりの機会と、こちらからしかけた機会である。真の男児たるもの、決してまぐれあたりの幸いを頼んではならない。大事に臨んでは、ぜひ機会というものを引きおこさねばならない。英雄と言われる者のなしたことをよく見るがよい。自分で引きおこした機会というものは、後から見るとまぐれあたりの幸いのようにみえる。これは気をつけねばならないことだ)」
西郷がそうであるように、織田信長もまた「機会は引き起こすもの」ととらえている。たとえば桶狭間の戦いを見ればわかる。自軍の数倍に達する敵に決戦を迫られたとき、必死の思いで策を練り、勝つためには自軍の多少の犠牲は計算に入れ全体として勝つ流れをつくらなければならない。そのため勝機を呼び込む機会をいくつもつくりだし、敵方には偶然の機会であるかのように見せなければならないのである。桶狭間の戦いは信長が勝つように仕組んだ結果としての奇襲戦である。しかし、現在の歴史家の定説では桶狭間山に布陣する今川義元の本陣を信長が正攻法で攻めのぼり、敵の混乱に乗じて勝利したとなっている。『信長公記』に表れている信長の性格
からしてありえないことだ。以後の信長の戦争や事跡をみると「これは設け起こした機会だ」というのがいくつもある。
重大な局面においては以前から打っておいた布石が「機会」となって出現するのである。この出現した機をとらえて戦いに勝つ流れをつくる。戦国時代「機会は設け起こす」という感覚を持っていなかったら、信長は生き残れなかったであろう。一八六八(慶応四)年三月、官軍は江戸まで進軍していた。ここでアーネスト・サトウに話を戻そう。「三月三十一日に私は長官と一緒に横浜に帰着し、四月一日には江戸へ出て、同地の情勢を探ったのである。私は野口と日本人護衛六名を江戸へ連れて行き、護衛たちを私の家の門のそばの建物に宿泊させた。私の入手した情報の主な出所は、従来徳川海軍の首領株であった勝安房ワノ守カミ(訳注 当時、旧幕府陸軍総裁、勝義邦、海舟)であった。私は人目を避けるため、ことさら暗くなってから勝を訪問することにしていた。官軍の先鋒はすでに江戸の近郊に達し、前衛部隊は品川、新宿、板橋などに入っていた。すでに江戸軍は解放されていたが、その別働隊と官軍との間で甲州街道や木曾街道で小ぜりあいが演ぜられたので、そのために官軍の到着は予定よりも一、二日遅れた」
「勝は、主君の一命が助かり、たくさんの家臣を扶養してゆけるだけの充分な収入が残されさえすれば、どのような協定にも応ずる用意があると言った。彼は西郷に向かって、条件がそれ以上に苛酷ならば、武力をもって抵抗することをほのめかした。慶喜としても、汽船と軍需品とは手離したくなかった。このことについては、すでに天皇に対して嘆願書を提出していたのである。西郷は、この嘆願書と勝の口頭の申し出を有栖川宮に披露するために、駿府へ引き返した。そして、駿府からさらに京都へ上ったのであるが、十八日には帰って来る予定であった。勝は、慶喜の一命を援護するためには戦争をも辞せずと言い、天皇の不名誉となるばかりでなく、内乱を長引かせるような苛酷な要求は、必ずや西郷の手腕で阻止されるものと信ずると述べた。
勝はまたハリー・パークス卿に、天皇の政府に対する卿の勢力を利用して、こうした災いを未然に防いでもらいたいと頼み、長官も再三この件で尽力した。特に、西郷が四月二十八日にパークス卿を横浜にたずねた時には、卿は西郷に向かって、慶喜とその一派に対して苛酷な処分、特に体刑をもって臨むならば、ヨーロッパ諸国の輿論はその非を鳴らして、新政府の評判を傷つけることになろうと警告した。西郷は、前将軍の一命を要求するようなことはあるまいし、慶喜をそそのかして京都へ軍を進めさせた連中にも、同様に寛大な処置がとられると思うと語った」
「勝が話した中で最も驚くべきことは、二月に前将軍の閣老とロッシュ氏(フランス公使)が協議した際、ロッシュ氏はしきりに抗戦をそそのかし、フランス軍事教導団の士官連中も、箱根峠の防禦工事やその他軍事上の施設を執拗に勧告したというのであった。大体勝の意見では、自分と大久保一翁とが二人の生命をねらう徳川方の激情家の凶手を免れることさえできれば、事態を円満にまとめることができるだろうというのであった」この時期の西郷がいかに微妙な舵取りをしなければならなかったかがよく分かる。サトウの話を見てわかるように、イギリスとフランスは二つの不平等条約をもとに日本の内政にすでに食い込んでいる。欧米列強の干渉を最小にとどめ、なおかつ内戦の傷を浅くして諸外国に対応できる新政府をすばやく樹立することが維新革命の最良の選択肢であった。