西郷党BLOG

道義国家を目指した 西郷吉之助 3p035-第三章_09

道義国家を目指した西郷吉之助

第三章  道義国家

9 国家運営と経済

道義国家の運営はどのようなものであろうか。立法、行政、司法の三権分立と二院制、それに民法、刑法、商法その他の諸法も含めて日本の国家体制を基本とした方がよい。現行の国家運営をしながら国民が道義という概念を持つように少しずつ環境を整えなければならない。日本もアメリカのように訴訟国家になりつつある。西郷の言葉に「己れを尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋べし」とあるように、自制や節度といった己を律する精神や己の非を素直に認め多少の不利なことであっても受け入れる人間の大きさが必要である。そして、物質を多く所持することよりも、道義的精神や利他の精神に人としての価値があるという風潮を、少しずつ社会に醸成していかなければならないだろう。地方議員や国会議員はややもすると選民意識や特権意識を抱きがちになる。それは民主主義の欠点でもある。多数決の原理によって国民から選ばれたことで、あたかも代議員自身に権力があるかのような錯覚を持ちやすいのである。これを防ぐためには選挙制度の改善改革を常に行い、民主主義制度を停滞廃退しないようにしなければならない。

実際、住民の多数決で選ばれる議員ではあるが、選ばれることは天意であるという意識を議員は持った方がよい。そうでないと住民と選ばれた議員だけの関係になってしまう。選挙に勝つための戦略戦術が講じられ、結果として愚民政策、愚民政治になってしまうのである。意識としては、住民から選ばれたことは、天の意でもあるとすることも重要である。選挙のことを一切考えずに、住民に良かれと思うことは、天意として住民を叱ったり諭したりすることも必要とされるのである。住民を愚民にすることではなく、住民を強くたくましい自主独立の人間にすることこそが、真の意味で議員に課された役目であり仕事であると言える。どの親も我が子が強くたくましく生きていくことを願うものである。偽らざる親の願いであり、国民・住民に対する天の願いでもある。天の願いを議員は代行しているのだと自覚することが大切であろう。明治初頭このような思いで述べたのが西郷の次の言葉であろう。

「廟堂に立ちて大政を為すは天道を行うものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を選挙し、能く其の職に任うる人を挙げて政柄を執らしむるは、即ち天意也」

今や、地球人類社会は各国が株式会社化し、資本主義・貨幣経済・消費経済の枠の中で自由主義という名の競争を強いられ、地の果てまでも各国の経済合戦が及んでいる。世界いずれの国も国民の欲求を満たすためには自国のみでの自給自足は不可能となっており、各国がそれぞれ輸出輸入を常態とする環境になってしまっている。それは資本主義経済の宿命でもあり大きな欠陥でもある。
いったん貨幣を通じて物資的に豊かな暮らしを知ってしまうと、より豊かになろうと願い、より多くの貨幣を得ようとする。生産を増やし販売し新たな豊かさを実際に手にすると、欲望を刺激されて豊かになろうとする思いは一段と強まり、さらに多くの貨幣を得ようする、という連鎖に入り込み抜け出せなくなるのである。イギリスの産業革命に始まる資本主義経済は、いつのまにか貨幣そのものを独り歩きさせてしまい、巨大な万能の生命体のようにしてしまった。貨幣を得るための、より多くの貨幣をより効率よく得んがための経済活動を強いられてしまうのである。

それを端的に表したのがイギリスと清国のアヘン戦争であろう。当時イギリスは清国から陶磁器や茶や絹といった産物を買い、イギリスの商人は買った商品の対価として貨幣を支払った。ところが、イギリス側は、未開の清国人に貨幣を支払っても意味がないと考え、その貨幣を取り戻す方法として、清国人にアヘンを買わせて、支払った貨幣を還流させようとした。また、日本でも浪曲「国定忠治」のなかに、越後の百姓嘉衛門が年貢を支払えず、思い余って娘を信濃の山県屋という女郎屋に金五十両という大金で売るという物語がある。買った山県屋藤兵衛は支払った五十両が惜しいと思い、五十両を子分に命じ追剥をさせ取り戻すというアヘン戦争と似たような話がある。ちなみに、話の結末としては、悲嘆のあまり信濃川に飛び込み自殺しようとしていた嘉衛門を、通りかかった忠治が助け、金を取り返し娘も連れ戻すのである。

人間にとって貨幣の存在はきわめて大きく、大なり小なりいつの時代でもどこの国においてもこのようなことは起こることでもある。日本には商道徳という言葉がある。また、松下幸之助が「商人道」と唱えたように、適正価格・適正利益を追求し節度ある客志向の意識が強くある。資本主義経済の拡大発展を止めることはできないが、発展のスピードを遅くする必要が現代社会にはある。このままでは世界各国の経済競争が激化して、通貨戦争や資源戦争に発展しないとも言えないのである。それには資本主義経済に抗うことであり、各国が自給自足国家を目指すことであろう。資本主義に逆行することだが、完全とはいかなくとも七割八割の自給自足を各国が達成したら、違った意味での国際関係と世界経済が出現するであろう。まず日本がこの課題に取り組み、いち早く実現すべきであろう。出来ないことではない。徳川時代、日本は二百五十年もの間、鎖国をしており、およそ三千万人の国民を自給自足で養っていたのである。江戸は商業も発達し、当時世界最大の人口、百万を抱えていた。

経済発展は、住民や国民が豊かで安心・安全な生活を送れるようにすること、それが真の目的と言わねばならない。にもかかわらずグローバル経済と称して、どの国家もその土俵での勝負にとらわれてしまっている。地球上で現在自給自足をしている未開の地の住民にまでも、貨幣の波を及ぼさなければならないのが、資本主義経済の宿命といってよい。
世界経済を新しいベクトルに変える必要がある。それが現代社会風に進化した自給自足経済ではないだろうか。西郷は「政の大体は、文を興し、武を振い、農を励ますの三つに在り、其の他百般の事務は、皆此の三つの物を助るの具也。此の三つの物の中に於いて、時に従い勢に因り、施行前後の順序は有れど、此の三つの物を後にして他を先にする更に無し」と述べている。この西郷の明治初年の考え方は明治政府に重視されなかった。当時は文明開化、殖産興業であり、農業よりも工業に重点が置かれ、それ以後も今日まで工業国家としての発展が続いている。

しかしながら現在の日本のように農産物の自給率が低いうえ、昨今政府の難題となっているTTP(環太平洋戦略的経済連携協定)交渉を見るとき、西郷のこの言葉が生きてくるのである。自給自足によって国家は国民の安心と安全を守らなければならない。教育によって国民の資質と意識を高めることは、国民一人ひとりが自主独立の精神を持ち人間として成長する礎であり、それがとりもなおさず国家の発展に直結することなのである。「武を振い」とは自分の国は自国で守るという精神であり、国民の資質と意識が高ければ自ずと備わるものと言える。これが西郷が言いたいことであろう。日本国民こそ経済の発展においても道義を取り入れてバランスの良い経済発展を成し得る国家であると信じる。

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