西郷党BLOG

道義国家を目指した 西郷吉之助 3p007-第一章_05

道義国家を目指した西郷吉之助

第一章  西郷隆盛

5 道義国家を目指す

西郷には国家観などなかったように現在でも思われている。日本は島国であるため、古来より外国の文化、思想や技術・産業を取り寄せ受け入れ日本風に育ててきた。それは、飛鳥・奈良・平安時代から室町時代までは主に中国からであった。飛鳥時代には律令制度を中国から輸入し、日本の統治形態とした。戦国・安土桃山時代はヨーロッパのスペインやポルトガルからであった。しかし、この時期は日本の国力がヨーロッパ諸国に見劣りしなかったため鉄砲の製造技術は取り寄せたが、他はあまり受け入れなかった。その後徳川幕府による二百五十年間の鎖国によって江戸時代の日本は、ヨーロッパ諸国に比べ産業、科学技術、統治形態が大きく遅れた。薩英戦争や四国連合艦隊下関砲撃事件では、火器の威力を通じて国力の違いを思い知らされた。

さらに、開港した居留地の建物や居住するヨーロッパ人を見て、日本との文明の差を目の当たりにして、かえって羨望をもった。幕末期に日本人が持ったこの「国力の差」への危機感が、維新革命の原動力となった。最初にこの国力の差をなんとか埋めたいと行動に移したのが吉田松陰であろう。一八五四年三月の下田渡行計画は、松陰自身がアメリカに行くことで、彼の地の科学技術・産業を学び研究し持ち帰って、日本の科学技術や産業の開発、発展に資することが目的であった。明治維新の十四年前である。日本を改革するためには、討幕の選択肢も松陰は根底に持っていた。幕末もさしせまると志士の中には、徳川幕藩体制をどのような体制に入れ替えるか模索した。それを科学技術と産業が発達している欧米列強に求めるのは自然の流れであった。イギリスやアメリカやフランスの政治体制が話題となり議論されたのである。

「その晩、私は薩摩の家老で内国事務係、参与の一人である大久保一蔵(利通)をたずねた。前年私は大久保と進物のやり取りをしたが、まだ一度も顔を合わせていなかったので、面識を得たかったのである。二人は単に儀礼的な挨拶にとどまらず、興味ある談話をかわした。
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大久保の頼みで、イギリスの議会制度と関連した行政府の機能、政党の存在、下院議員の選挙などについて、できるだけよく説明した」

このサトウの話でもわかるように、中国の隋・唐の律令制度を輸入していた当時の日本に似ている。しかし、律令制度は飛鳥時代、奈良時代、平安時代と時間をかけ整備しながら移植したが、幕末にはその時間がなく物でも借りるように欧米の制度を借りて日本の国土に置こうとした。この手法は明治以降も続き、太平洋戦争の敗戦後はアメリカ式の民主主義が日本の借り物となった。当時の日本は民度や教育水準が高く、物づくりの技術力も優秀だった。吉田松陰が目したように、欧米先進国の科学技術と産業構造を学び研究すれば日本は十数年で彼らに近づくのである。

これらを取り寄せ日本を近代国家にするにしても、日本国に合った国体にして取り入れるべきだった。すくなくとも、日本はどういう国家にすべきなのか、またどういう国家であらねばならないのかなど、幕末のこの時期、討幕側にも幕府側にも日本の未来を見据えた国家観を持つ者はいなかった。欧米列強の兵器の威力と科学技術力と産業力の前に畏怖し、日本の国体はどうあるべきかよりも、彼らの真似をすることで見劣りのしない国家にすることを優先させたのである。志士にとっては討幕が最大目的であり、討幕の好機にそれ以外のことを考える余裕はなく、後のことは漠然と情報として仕入れたのである。

「宿泊の場所が決まると、私たちは西郷を訪ねた。ヨーロッパから帰朝したばかりの岩下佐次右衛門が、その友人のモンブラン伯(※)と一緒に西郷のところへ来ていた。話はイギリス軍艦イカラス号の二水兵殺害事件におよんだ。西郷は私に、貴殿はなにげないいい方をするが、鋭い見方をしていると、西郷はほめてくれた。今後も外国人の殺害がおこなわれるかどうかについて、いろいろな意見があるようであった。わたしが平生見るところでは、日本の進歩をねがい、日本人に好意をいだいている外国人は、そういうことはなくなるという意見なのだが、他方冷静に事態を観察している外国人は、拳銃の携行をやめることをあまりすすめないのである」戊辰戦争最中であっても駐留していた欧米列強との間にはさまざまな問題が発生していた。

「二月四日(訳注 明治元年一月十一日)、この日早朝から備前の兵士が神戸を行進しつつあったが、午後二時ごろ、その家老某の家来が、行列のすぐ前方を横切った一名のアメリカ人水兵を射殺した。日本人の考えからすれば、これは死の懲罰に値する無礼な行為だったのである」

これが備前事件である。
「翌日私は、備前事件の始末がどうなったかを尋ねに、西郷を訪問した。西郷はこう答えた。

駕籠に乗っていた家老の日置帯刀は罪を免れない。彼は三藩にお預けになり、監禁されることになるだろう。乗馬の士官は死刑を執行されるだろう。天皇の検察官(検使)の臨席のもとに死刑の宣告が下され、宣告文の写しが諸外国の代表に送られるだろう。ついで、宣告と処刑の顛末を国内に触れて、一般国民に知らせると共に、これをもって警告ともするであろうと。西郷は更に、天皇の政府は外国人が自ら法律を行使する必要のないように、日本全国の秩序維持を期するつもりであると言った。私はこれに答え、ハリー卿もこれと同意見であり、備前の暴行に関しては天皇から使者が差し遣されると信じているので、わが方は西宮の備前藩士に対し討伐軍を出動せよと迫る周囲の人々の要求を退けているのだ、そしてハリー卿は事件を天皇の政府に一任する事を可としている、などと答えた。
西郷はまた、条約遵守に関する天皇政府の声明中に『弊習の改革』とあるのは、新政府が条約改正の提議を望んでいるという意味であると説明した。そこで私は、改革してほしい三点をあげた」

「翌日、私は吉井と一緒に後藤をたずね、備前事件について話し合った。後藤は西郷と大体同じ事を言ったが、西郷ほどはっきりしたものではなかった。彼は、あの時火ぶたの切られる前に槍を使った男は死刑になったと告げた。それから後藤は新しい憲法について論じ、大多数の人間は常に愚鈍で間違った考えをいだきがちであるから、審議のために会議をやってもむだだと言った。私は、でも試験的にやって見てはどうか、もし議員連中が自分の頭を石の塊にぶっつけるならば、痛さに目をさまし、道理を悟るであろうと言った。後藤としては、独裁政治をやるような英雄型の人物がいない場合には、首相と国中の最も賢明な者たちから成るジュンタ(訳注 スペイン及び南米などの議会)を設けて、政治をやってゆくという考えをもっていたようだ。後藤が自分を、

『もっとも賢明な者』(人傑)の中に入れていたことは疑いないところだ」樹立された新政府は戊辰戦役の中で討幕の軍を進めながら、一方では条約国との間に発生した諸問題に対処しなければならなかった。薩長の指導者にも討幕に参列した諸藩の指導者の中にも、新政権における明確な国家観は誰も持っていなかった。泥縄式のそれであった。

討幕を果たしたのは武士階級の人間である。徳川幕府に代わって欧米列強の圧力に危機感を持った薩長の下級武士による合同政権ともいえる。武士階級対一方の武士階級の政権交代にすぎず、時代の要請で封建徳川幕府が近代国家へと看板を変えねばならなかっただけと言える。明治維新は武士という支配層が王政復古を伴って起こした革命であり、民衆や国民といった概念はあまりなかった。

維新革命は当時の世界の情勢上、日本が必要に迫られた革命であったため、性急さが目立ち革命指導者すべてにおいて余裕がないのである。明治維新後も同じ状態が続き、日清、日露、太平洋戦争と余裕のないまま戦争に突入し、それが戦後の日本になっている。
現実には、欧米列強を恐れる必要はどこにもなかったのである。植民地支配されたほかのアジア諸国と違い、日本は民度が高く武士階級という侍が多数存在し、欧米列強の各公使はあなどれない国家であると一様に認めていた。ただ、科学技術や産業が遅れているだけであった。国家の設立目的は何か。そもそも国家の存在意義は何か。誰のための国家なのか。構成はどうするのか。それでは日本をして世界に冠たる国家にするにはどのようにすべきか。誰のための国家なのか。設立の理念目的は。国家構成員の役目役割とは。こ
れらが百年後、五百年後の人間の成長発展に値する国家組織であるのかどうか。

このようなものを国家観とするならば、討幕志士の大久保、木戸、伊藤や坂本龍馬であっても、また他の多くの志士も持つに至らなかったのである。幸いにも西郷は南海の孤島で三十二歳から五年に及ぶ幽囚の身であった。そのため十分な思索の時間を得ることができた。島民の中にあって共に生活し、そこで妻子を得て島に同化した。島民と島役人と鹿児島から赴任している藩庁の役人との関係を、島民の目で見ることができた。封建制度のさまざまな矛盾や理不尽さを目の当たりにもした。沖永良部島では吹きさらしの「囲い牢」に押しこめられ生死の境をさまよう状態であった。島役人土持政照の善意によって死の淵から助け出され西郷は生を得るのである。このような経験を持っていたことが、西郷と他の討幕の志士が一番違っているところである。

次は西郷が土持政照に請われて、役人のあり方をわかりやすく書いて与えた「与人役大体」である。海音寺潮五郎著『西郷隆盛』にある口語訳「与人役大体」の全文を掲載する。

「 与人役大体与人役という役目は、島中でわずか三人えらび出されて、万人の上に立つものでありますから、人民の死命を司る役目といってよく、至って重い職事であります。一人の与人がことを誤ると、千万人をあやまることになるのですから、一事を為すにも慎
重でなければならないわけです。一体、頭役たるものは人心を得ることが第一に肝要なことですが、人心を得る道は、わが身を勤め、私欲を絶ち去ることに尽きます。万人の頭として立つ者ですから、どんな無理なことを申しつけても、下々の者は違背することは出来ず、内心はいやであっても、かしこまるものですから、いい気になって、与人役とはまことに貴いもので、どんな我儘でも出来ると考えては、忽ち万人の仇敵となり、頭役たる実を失ってしまいます。

役人なるものは、どんなわけで立てられているものでしょうか、我儘勝手をいたせよと立てられたものではないことは申すまでもありません。第一は天が万民を一々お取扱いになることが出来られないので、天子を立てられて、万民がそれぞれの業に安んずるようになさったのです。しかし、天子おひとりでは行きかねられますので、諸侯をお立てになって、それぞれの領分の人民を安堵させるように御委任になったのです。しかし、諸侯もひとりではその領内の人民を治めることが行き届きかねられるので、諸役人を設けられたのです。このように、役人というものは、もっぱら万民のためのものですから、役人たるものは、民の疾苦は自らの疾苦とし、民の観楽は自らの歓楽として、日々天の意を欺かず、その根本に報いるようにするのを、よき役人とは言うのです。もしこの天の意に背くようなことがあっては、天の明罰のがるる所がないのですから、深く心を用うべきことです。

一、人民は力を労して本に報ゆるが職分、役人は心を労して本に報ゆるが職分です。力を労するとは、作職(農事)に精を出し、年貢を滞らせず、或は課役を勤むることです。心を労するとは、人民の頼りよいように取扱ってやることで、凶年の防ぎをしたり、作職の時節を取失わないように仕向けることです。この本意をよくよく合点して難儀の筋をはぶいてやることが専要なことです。役人の取扱いがよくて、民が怨嗟することがなくなれば、風雨旱疾の憂えなどなくなるものです。民の心が即ち天の心ですから、民心を一様にそろえ立つれば、即ち天意に随うことになるのです。

人心調和すれば気候も順和すること的然たることですから、頭役たるものの第一に心を用うべきところはここにあります。たとえ代官の下知にもせよ、みすみす民の痛みになることは、いく度もその難渋である理由を説明して、代官の納得するように心を尽すのが、頭役たるものの職分であります。役儀は代官から与えられたものではなく、君公から与え置かれた役職なのですから、代官の意に阿っては不忠の場に陥って、君公の御不徳を醸し出すことになります。よくよく酌くみわけて、これは代官の仕事だから自分らの罪ではないなどと、よそごとに心得ては、たまたま君公から与え給うた役職を大切に思わない不埒なこととなり、一身のために禄を貪るというものです。もちろん、奉公の身の上は、(上の威を)犯すことあるも、(君の悪を)隠すことなしとの聖人のことばもあるくらいです
から、代官にたいしても、道理を主張してその意に逆らうことがあっても、それは不敬の罪にはならず、役どころの筋を失わないというだけのことですから、ここの弁別は肝要なことです」

これを見ると西郷の持つ国家観や政治論がどういうものか読みとれるであろう。西郷は「民の心が即ち天の心である」と説き、役人というのはもっぱら万民のためのものであり、天は万民がそれぞれの業に安ずるようにするために、天子や諸侯や役人を置いていると述べる。さらに、天を万有の根源とし、天の機能を仁愛であるとしている。天の仕事は万民に仁愛をほどこすことである。それを実行するために天皇に代行させ、その行為を万民に及ばすために組織として諸大名や役人が存在するのだと語る。万民が幸せになりたいと願う心は、すなわち天がそれを万民にほどこそうとする願いと同一だと述べる。

このことを現代に置きかえて一番近いのは、主権在民の民主主義であろう。大宇宙を含めた万物の創造主が存在するとする。それが天である。創造主は七十億の地球人類に仁愛をほどこすことが仕事である。創造主は意思だけがあって実体は持っていない。現在はその意思を具現化する一つの方法として主権在民、民主主義国家が存在している。しかし、二十一世紀の民主主義国家であっても創造主の意思は具現化されておらず、まだまだ未完成の状態なのである。

十九世紀半ば、西郷は万民に仁愛をほどこす存在として天を設定し、その意思が万民にあまねく行きわたるように形成されたのが国家組織であると述べている。そして国家組織の中にあって天の意思を代行する機関として天皇や大名や諸役人が存在するとしている。これは天賦人権思想の考えに似ている。人間は生まれながらにして人権を持っているのだとするのは、人間の尊厳という意味では理解されやすい。人権を持つ人間(国民・民衆)が安心して生活できるように国家が存在するのであり、それを実施するために国家の諸機関があるのだと西郷は主張する。諸機関の一つである警察組織であっても、単に罪人を摘発するのが第一ではなく、罪を犯さない環境にすることが本来の職務であるとする。これも西郷が土持政照に与えた「間切横目役大体」に表れている。

このような西郷が英国王の臣下である外交官アーネスト・サトウに「与人役大体」をアレンジして国民議会について論じたとしたら、まちがいなく「狂気じみた論だ」と言うであろう。西郷は現在でも誤解されたままで歴史評価を受けている。一体なぜであろうか。西
郷ほどの人間でなければ西郷は分からないと勝海舟は述べている。

海音寺潮五郎氏は学者諸氏が遺訓集の研究を等閑した結果だと訴える。『西郷南洲遺訓』は西郷自身が書いたものではなく、近くにいた荘内藩士の人々に西郷が折に触れ語った言葉を後に編集したものであるため、資料性に乏しいと言うのである。しかし、資料として西郷自筆で書き残されている「与人役大体」「間切横目役大体」「社倉趣旨書」を研究すれば、これらの延長線上に『遺訓』があることが分かる。『遺訓』は直接西郷が書き残したものではないが、十分意思は表現されている。西郷はまぎれもなく日本が世界に誇れる人物なのである。二十一世紀の時代にも、さらにそれ以後も「人間の成長とはかくあるべし」と世界中の人々に示せる人間のモデルである。今こそ西郷の評価を見直し、正しい歴史評価をすべきである。維新革命によって日本は新しい国家に変わるのだから、今こそ理想国家にするべきと西郷は思ったのであろう。「敬天愛人」の哲学・思想にもとづく万民のための国家形態である。

「 間切横目役大体一、横目は監察とも申して、諸役人に対しては言うまでもなく、万事の目付役です。しかし、ただ科人をさがすの、弁口が上手だの、などということは枝葉末節のことです。原則を申せば、科人の生じないようにするのが、横目を立ておかれる精神です。深く心を尽して、罪に陥らしめないように仕向けるのが、第一のことです。先ず鰥寡孤独のものをあわれみ、或は患難憂苦のものを恵み、善行あるものを褒め尊み、人々がたがいにふびんがるように仕立てることです。最も気をつくべきところは、諸役人の民に対する取扱の善悪と民の疾苦とであります。役人が私曲を働いては、民取扱いの上で、民を科人にすることが多いものですから、深く心を用いて、民が罪をおかす根本のところを審かに察することが肝心であります。

もし役人の取扱いがよくないなら、それは万人を苦しめている罪もあり、君を欺いている罪もあって、重罪にあたるばかりでなく、一人や二人の盗人などより、格別に重罪なわけですから、一人を罰して万人を懲らしめる本則に従って、厳重に摘発すべきであります。軽罪の者を重く罰し、重罪の者を軽く取扱っては、法を私しするというもので、人々が法度を軽侮するようになるものです。万人が恐れつつしむるようにするのが第一のことです」
(海音寺潮五郎著『西郷隆盛』より)「与人役大体」や「間切横目役大体」には西郷の心底が表れている。横暴な権力を庶民のためにならない悪だと判断したら変革してもよいとして、権力闘争を繰り返して勝利し、己が望む政権をつくろうという強い欲はなかった。
歴史を振り返れば、五年や十年かけても熾烈な政治闘争を行い、貪欲に西郷が目指す国家を建設すべきであったと思うこともあるが、聖賢を目指す西郷には無理な相談なのであろう。しかし、西郷は政権を離れ鹿児島で野にあったとはいえ、心底には横暴な権力に対する変革の炎が燃え続けていたのである。

※モンブラン伯爵(コント・デ・モンブラン)
フランス・ベルギーの両国籍を持つ貴族。一八六一(文久元)年に来日し、一八六五(慶応元)年に薩摩藩密航留学生の一行とベルギー・ブリュッセルで会見、五代友厚らと交友関係を築き、パリにおいて薩摩領内の資源相互開発協定を薩摩藩とベルギーの間で締結して商社を設立。一八六七(慶応三)年のパリ万博では、幕府に対抗する薩摩藩代表、岩下佐次右衛門(方平)らの顧問となって活躍した。

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