第一章 西郷隆盛
6 西郷政権
一八七一(明治四)年七月に廃藩置県が断行され、同年十一月には岩倉使節団が横浜を出港する。同使節団は右大臣岩倉具視を大使とし、副使の大久保利通、木戸孝充、伊藤博文、山口尚芳以下、明治政府高官約五十人からなり、二年近くアメリカをはじめ欧米諸国を外遊する。留守政府を預かったのが西郷である。彼らの帰国までの間、西郷は筆頭参議として明治政府の首相的な立場にいたのである。
この準備なき思い付きの外遊を歴史的に評価すると、その後の日本のあり方を決定したといえる。日本をどういう国家にすべきであるか。五十年後、百年後の日本の未来はどうあるべきか、など日本の進むべき方針をしっかりと決定して後、吉田松陰のように日本が遅れている科学技術や産業を輸入し日本の発展に用いるべきだったのである。
しかるに戊辰戦争が終わったばかりの国体も定まらないとき、政権の高官が多数外遊したことは、いたずらに日本の指導者に欧米に対する羨望とコンプレックスを植えつけることになった。それが明治時代の欧化政策に表れ、日清、日露戦争につながり、日中戦争、太平洋戦争、さらに戦後の米国追従政策となって現在も続いている。幕末にペリーの砲艦外交で開国して以来、日本は常に欧米を意識してきた。彼らと日本の文化や科学技術や産業を比較するあまり、彼らのものを善とする風潮を生んだ。結果として、日本の精神文化を卑下し、その分アジア東洋諸国を少なからず軽く見る感覚を持った。
政治というものは、神やロボットが行うものではなく生身の人間が行う。信長や秀吉や家康の判断基準も、突き詰めればほとんど私意であるといってよい。世界や日本の歴史を見ても、時代の局面における指導者の判断が国の命運を左右している。現在の一般的な歴史評価では、岩倉遣外使節団は日本の命運を左右した出来事だとは思われていないが、実際はこれが起因となって今日までの日本の歴史がつくられたといってもよい。
日本には対欧米でなく世界に誇れる独自の精神文化が脈々と存在している。飛鳥、奈良、平安時代と鎌倉、室町、戦国、安土桃山、江戸時代の七百年に及ぶ武士政権があり、この長い年月で日本の精神文化が醸成されたのである。幕末には外国人殺傷事件が多発した、多くは武士による武士の立場上の事件であった。彼らの責任のとり方をサトウは「侍のハラキリ」と紹介し賞賛している。二〇一三(平成二十五)年の現在でも日本には米軍基地があり、戦後七十年に及ぶ基地の存在と日本政府のアメリカ依存は米国の属国であると揶揄されたりもする。歴史は修正することは出来ないが、欧米使節団は遣隋使や遣唐使のようであっても良かったと思える。わざわざ日本の指導者が彼らに圧倒されるために行く必要はなかった。
サトウの著作で表現されている西郷は実に堂々としている。おだやかでありそして毅然としている。道を行う者の余裕と自信がみなぎっている。イギリス公使パークスと交渉もし、サトウも信頼を寄せるようになっている。指導者は外国に行かずとも明治初頭になすべきは、日本をどういう国にするか基本方針を決めることである。このことは次の『遺訓』に表れている。「広く各国の制度を採り開明に進まんとならば、先ず我国の本体を居え風教を張り然して後除しづかに彼の長所を斟酌するものぞ。否らずして猥りに彼れに倣ひなば、国体は衰頽し、風教は萎靡して匡救す可からず、終に彼の制を受くるに至らんとす。
(訳)広く諸外国の制度を取り入れ、文明開化をめざして進もうと思うならば、まずわが国の本体をよくわきまえ、風俗強化の作興につとめ、そして後、次第に外国の長所をとり入れるべきである。そうでなくて、ただみだりに外国に追随し、これを見ならうならば、国体は衰え、風俗強化はすたれて救いがたい有様になるであろう。そしてついには外国に制せられ国を危うくすることになるであろう」
西郷政権は実質的にわずか二年間の内閣であったが、この西郷内閣こそ最も効率的に仕事をし、社会変革を進め、政治を理想に近づけた第一級の内閣であったと、勝部真長氏は著『西郷隆盛』で述べている。西郷内閣二年間(明治四年十一月〈大使出発〉から、明治六年十月の辞表提出までの二年間)の主な実績である。(勝部真長著『西郷隆盛』より)
一、人権問題 封建的身分差別の摘発
一八七一(明治四)年
八月九日 断髪・廃刀を許可(士族の帯刀義務を排除)
十七日 切り捨てを禁止
二十三日 華族・士族・平民相互間の通婚許可
二十八日 「穢多・非人」の称、廃止
同身分・職業の平民並み化
十二月十八日 華士族・卒の職業選択自由化
一八七二(明治五)年
一月二十九日 卒身分の廃止
第一章 西郷隆盛
三月 神社仏閣の女人禁制廃止
四月九日 僧侶の肉食、妻帯、蓄髪の許可
六月 ペルー船マリア・ルース号の清国人奴隷解放事件
八月三十日 家抱・水呑み百姓の解放、農民職業自由の許可
十月二日 人身売買禁止、娼妓・年季奉公人の解放
十一月二十八日 全国徴兵の詔(国民皆兵制)
一八七三(明治六)年
二月 切支丹禁制高札の撤去
二、土地制度問題 封建制の経済面の改革。近代的土地制度
一八七一(明治四)年
九月七日 田畑勝手作(作付けの自由)
一八七二(明治五)年
二月十五日 土地永代売買の解禁・地券渡方規則 近代的所有権(私有権)の承認
一八七三(明治六)年
七月二十八日 地租改正。田畑貢納制の廃止、地券調査、地価の百分の三の金納地租(この高い地租の負担に耐えかねて土地を手放
す者が多かった。地主的土地所有が進んで増大した小作層は余剰労働力となり、低賃金層として日本製品の国際競争力を支えたのである)
三、戸籍整備
一八七二(明治五)年
一月 全国戸籍調査
四、教育の普及
一八七一(明治四)年
第一章 西郷隆盛
七月十八日 大学を廃し文部省をおく
一九七二(明治五)年
四月二十五日 教導職をおき教部省に配属させる
五月 陸軍兵学寮幼年舎を改め、幼年学校とする
八月二日 「学事奨励に関する仰せ出され書」、学制公布全国を八大学区、一大学区に三十二中学区、一中学区を
二百十小学区(五万三千七百六十)とするピラミッド型実施後三年にして全国に二万四千二百二十五の小学校ができた
五、西洋文化の輸入
一八七一(明治四)年
十二月 東京―長崎間 郵便設置
一八七二(明治五)年
四月 東京―大阪間 電信開通
九月 新橋―横浜間 鉄道開通
十一月 太陽暦採用
国立銀行条例制定
六、法治主義の導入
一八七二(明治五)年
十月二日 太政官布告第二九五号〔人身売買禁止〕
十月七日 司法省達第二二号〔養女名目の抜道を許さず〕
十一月二十八日 司法省達第四六号(六ヶ条)
地方官の専権で人民の権利を侵害された時は、人民は裁判所に訴えて救済を求められる西郷政権のとき、政府高官の山県有朋(陸軍大輔)と井上馨(大蔵大輔)による大規模な汚職事件が発生した。西郷が筆頭参議として政治に臨んだ姿勢について説明しよう。『遺訓』の中で西郷はこう主張している。
「廟堂に立ちて大政を為すは天道を行ふものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を選挙し、能く其職に任ふる人を挙げて政柄を執らしむるは、即ち天意也」と。政府にあって政治家や役人が国の業務をするということは、天の道を行うことである。天とは「与人役大体」の天である。天道とは、天に代わって仁愛(道)を民に施すことである。それゆえわずかであろうと私心をさしはさんではならない。どのようにしても心を公平公正に保持し、人として行うべき正しいことを踏み行うことが、政治家や役人の義務であると西郷は考えている。ここでも分かるように西郷が求めているのは、天道を行う国家すなわち道義国家なのである。
理想的でありすぎるとも思えるが、国家が国王や領主や独裁者のものでないなら、道義国家は現在における主権在民の民主主義国家に近いと言える。西郷は沖永良部島の「囲い牢」にいた時も政権内で参議の職にあった時も「民の心が即ち天の心であり、役人は万民のためのもの」とみる考え方を全く変えていない。日本史の中では留守政府のことは一般にあまり知られず、またその間の業績がクローブアップされたこともない。西郷が西南戦争を起こしたためであるが、現代の日本において西郷が目指した道義国家のなんたるかを検証することで、日本が世界に貢献する役割が見えてくるはずである。
次の『遺訓』は西郷の税に関する考え方であるが、経営コンサルタントの舩井幸雄氏は日本を無税国家にすることは可能だと述べている。日本国の国土はすべて国有地にして国民の求めに応じ貸し出し、借地料を税に代わる国家運営費にするなど、考えればキリがないほど方法はある。国民のために国家を運営しているのだから国民が税を納めるのは当然という固定観念から解放され、そろそろ違う方法による国家運営を考える必要もある。
「租税を薄くして民を裕にするは、即ち国力を養成する也。故に国家多端にして財用の足らざるを苦むとも、租税の定制を確守し、上を損じて下を虐たげぬもの也。能く古今の事跡を見よ。道の明かならざる世にして、財用の不足を苦む時は、必ず曲知小慧の俗吏を用ひ巧みに聚斂して一時の欠乏に給するを、理財に長ぜる良臣となし、手段を以て苛酷に民を虐たげるゆえ、人民は苦悩に堪へ兼ね、聚斂を逃れんと、自然譎詐狡猾に趣き、上下互に欺き、官民敵讐と成り、終に分崩離析に至るにあらずや。
(【訳】税金を少なくして国民生活をゆたかにすることこそ国力を養うことになる。だから国にいろいろ事がらが多く、財政の不足で苦しむようなことがあっても税金の定まった制度をしっかり守り、上層階級の人たちをいためつけたり下層階級の人たちを、しいたげたりしてはならない。昔からの歴史をよく考えてみるがよい。道理の明らかに行われない世の中にあって、財政の不足で苦しむときは、必ず片寄ったこざかしい考えの小役人を用いて悪どい手段で税金をとりたて、一時の不足をのがれることを財政に長じたりっぱな官吏とほめそやす。そういう小役人は手段を選ばず、むごく国民を虐待するから人々は苦しみに堪えかねて税の不当な取りたてからのがれようと、自然にうそいつわりを申し立て、また人間がわるがしこくなって上層下層の者がお互いにだましあい、官吏と一般国民が敵対して、しまいには国が分離崩壊するようになっているではないか)」(『遺訓』十三項)
次の『遺訓』は外交についての西郷の考えである。戦後日本は外交が弱いとされ続けて来た。日米安保条約の傘の下で経済発展し世界二位の経済大国となった。実際は明治以降も外交に強かったとは言えない。外交に弱かったから太平洋戦争の敗戦があったのである。国家が存在し国家間の利害の対立がある以上、国家は自国民のため勝ち続けなくてはならない。戦国時代の信長のように一つの局面で敗れても、全体では勝ち続ける戦略を持ちこの状態を必死で維持することが外交の本質である。そして、いかなる場合も相手国と良好な関係を持つことがその目的である。
「正道を踏み国を以て斃るるの精神無くば、外国交際は全かる可からず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従する時は、軽侮を招き、好親却て破れ、終に彼の制を受くるに至らん。
(【訳】正しい道をふみ、国を賭して倒れてもやるという精神がないと外国との交際はこれを全うすることはできない。外国の強大なことに恐れ、ちぢこまり、ただ円滑にことを納めることを主眼にして自国の真意を曲げてまで外国のいうままに従うことは、あなどりを受け、親しい交わりがかえって破れ、しまいには外国に制圧されるに至るであろう)」(『遺訓』十七項)
日本は略奪や暴動が起こりにくい国である。東日本大震災の時もそうであった。日本は民度が高いからであろう。片や中国では年間数万件の抗議デモが起きているという。国民の民度を高くするのも国家の役目である。西郷が唱える「敬天愛人」の思想からみても、国民が教育を受け、自助努力を成し、道義を基本におき仕事をこなし人として成長することは天の願いである。一人ひとりの国民が力強くたくましく、よりよき人生を歩めるよう取り計らう(教育と訓練を施す)ことが天意であり、国家機関(国会、各省庁、諸官庁など)は 天意=民の心 を具現化することが役割であり、義務である。この視点は西洋各国、人間が集合した国家であれば東洋、西洋を問わず人類の国家においては根本原理である。この根本原理を充実することが本当の意味での国の力である。西郷はこう考えるのであろう。
「節義廉恥を失ひて、国を維持するの道決して有らず、西洋各国同然なり。上に立つ者下に臨みて利を争ひ義を忘るる時は、下皆之に倣ひ、人心忽ち財利に趨り、卑吝の情日々長じ、節義廉恥の志操を失ひ、父子兄弟の間も銭財を争ひ、相ひ讐視するに至る也。此の如く成り行かば、何を以て国家を維持す可きぞ。徳川氏は将士の猛き心を殺ぎて世を治めしか共、今は昔時戦国の猛士より猶一層猛き心を振ひ起さずば、万国対峙は成る間敷也。普仏の戦、仏国三十万の兵三ヶ月糧食有りて降伏せしは、余り算盤に精しき故なりとて笑はれき。
(【訳】節義〈かたい道義、みさお〉廉恥〈潔白で恥を知ること〉の心を失うようなことがあれば国家を維持することは決してできない。それは西洋各国であってもみな同じである。上に立つ者が下に対して自分の利益のみを争い求め、正しい道を忘れるとき、下の者もまたこれにならうようになって人は皆財欲に奔走し、卑しくけちな心が日に日に増長し、節義廉恥のみさおを失うようになり、親子兄弟の間も財産を争い互いに敵視するに至るのである。このようになったら何をもって国を維持することができようか。徳川氏は将兵の勇猛な心をおさえて世の中を治めたが、今は昔の戦国時代の勇将よりもなお一層勇猛心を奮いおこさなければ世界のあらゆる国々と相対することはできないであろう。独仏戦争のとき、フランスが三十万の兵と三ヶ月の食糧があったにもかかわらず降伏したのは、余り金銭財利のそろばん勘定にくわしかったがためであるといって笑われた)」(『遺訓』十六項)
人は人としての教育を受けてはじめて人となり得るのである。国は国民一人ひとりに、はじめに基礎教育を施し、次に専門教育を修得させ、その間に道義(人としての正しい生き方)を学び体験させていく。そうすれば自ずと科学技術や産業は発達すると西郷はとらえている。現在の日本においても「何を以て国家を維持すべきぞ」と西郷に言われないようにすべきである。二年近い西郷政権ではあったが、一方では旧藩主島津久光の西郷への怒りが激しく、特に廃藩置県の断行によって薩摩藩が消滅したことへの恨みは強烈であった。それに対応するために、西郷は多くの労力と時間を費やさざるを得ず、望んだ政権運営の半分もできなかったことも事実である。