西郷党BLOG

道義国家を目指した 西郷吉之助 3p039-第四章_02

道義国家を目指した西郷吉之助

第四章  廃国置県

2 世界国家思想

西郷を見て思うのは、接する人間に分け隔てがないことである。それは島に流されていた時の島民に対しても、アーネスト・サトウやウイリアム・ウイルスに対しても同様であった。西郷の言う「天の視点」で人間を見るとき、それが何人であれ人種に区別はない。その人が金持ちであろうが、王家の一族であろうが、貧乏人であろうが、人間の外形は関係ないのである。ただ一人の人間として見てしまう。そしてその人が人間としてどのような成長を遂げてきたのか正味を見る。付随している地位や権力や名誉などで分け隔てをしないのである。

「道を行うには尊卑貴賤の差別無し。摘んで言えば、堯舜は天下に王として万機の政事を執り給えども、其の職とする所は教師也。孔夫子は魯国を始め、何方へも用いられず、屢々困厄に逢い、匹夫にて世を終え給いしかども、三千の徒皆な道を行いし也」これは『遺訓』にある西郷の言葉である。西郷は何を言わんとしているのであろうか。理想的な政治統治のあり方として堯と舜の治政が挙げられている。いずれも古代中国の伝説上の聖王である。国民が安心して安全な生活ができて、一人ひとりが節度ある行為をして国に何ら不平不満を抱かないならば国家の仕事は何もなくなるであろう。政治家も必要でなく、警察や裁判所もほとんど必要がなくなる。そこで必要とされるのは、千差万別の人間に対して生き方を適正に指導したりサポートしたりすることであろう。人々が自主自立の精神を持つ共生社会であれば、それはまさしく「鼓腹撃壌」の社会であろう。

(鼓腹撃壌=人々が平和で安楽な生活を喜んでいる状態のたとえ。中国の古代、伝説の名君とされる五帝の一人堯〈ギョウ〉が、お忍びで国のようすを視察に出かけたところ、老人が満腹して腹をたたき土を打ちながら「わしは自然のままに幸せに暮らしている。帝の力などなんでわしに関係があるだろうか」と歌っていた。これを見て堯は自国の人民が安らかに暮らしていけることに満足したという故事)。

極論すれば政治家や役人は必要でないと西郷は言いたいのである。人民が鼓腹撃壌であれば、次は一人ひとりの人民がより良き人生を送れるよう、アドバイスできる人生の練達者・教師といった存在が必要であろう。国家に機関があるとすれば、その教師の役目をする機関で十分といえる。人は常に生き方を問い思い悩む。そしてよりよい生き方を求めている。西郷は孔子を例に出し「三千の徒皆な道を行いし也」と述べ、人間にとって衣食住を満たすことも大切であるが、それ以上に生き方が重要であると主張している。要するに、堯も舜も人生の教師、すなわち人民をよりよい生き方に導くことが本当の仕事(政治家や役人もそうであるべき)と言いたいのである。余談だがこの意識が西郷になかったなら、私学校の設立はなかったであろう。

世界国家を建設するための思想が必要である。しかしながら人類はまだその思想を持ってない。自由主義、資本主義貨幣経済、民主主義思想では世界国家建設は不可能に近い。人類全体が新しいステージに上るためには、それを推進する思想が必要である。今後世界は世界国家建設思想を生み出す努力をしなくてはならない。温故知新ではないが古代中国の孔子や孟子の思想を研究することで、世界国家建設に役立つ新たな思想の発見があるかもしれないのである。人類全体を包み込める思想であり、かつ人類の未来に明るさと希望を与える思想でなければならない。

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