第五章 四海同胞
4 数を少なくする
一家親睦の方法とは何だろうか。
西郷が沖永良部島に遠島されていた時である。西郷は「囲い牢」の中にあって、牢格子の前に村の児童を集めて読書などの勉強を教えていた。ある日、西郷は子供たちに「家族が睦まじく暮らすにはどんな方法があるだろうか」と尋ねた。するとその中で最年長の十六歳になる操坦勁が、自信ありげに進み出て次のように答えた。「その方法は五倫五常(儒教で、人として守るべき道徳である五倫と五常)を守ることだと思います」と。それを聞いた西郷は頭を振って「いやいやそうではない。五倫五常は金看板(世間に誇りがましく掲げる主義・主張)であって、表面の飾にすぎない」と答えて、次のように説明して教えたのである。
「五倫五常の道は当り前のことを表向き標榜していることなので、実際にはただちには役に立たないのである。それを行うには時間もかかるため怠惰に落ち易くなかなかできることではない。それよりも手っ取り早く効果があるのは欲から離れること(欲を出さない、欲にこだわらない)が一番である。たとえばここにおいしい食物があったとする。それは家族みんなで分けあって食べるようにする。また衣服を製ったり買入したりする場合も、良い物は年長者の兄や姉に譲り、また兄や姉は弟や妹から先するようにと互いに譲り合うのである。誰でも自分が美味しい物を多く食べたいし、良い衣服は一番先に着たいと思うであろう。それを自分だけにと思うのは自分勝手なわがままであり、その我欲を抑えて、兄は弟のためにと、弟は兄のためにと誠意を尽くすことが大切である。親族の親しみもお互いが我欲を出すことで離れていくのであるゆえ、その根拠となっている我欲を絶つことが最も大切なことである。そうすることで自分の欲にも克つようになり、そして相手を思いやることができるようになる。自然と相手をいつくしみ愛する心となりそれが続いて親族同士、良好な関係を保つことができるのである」
現代でも親が残した財産をめぐる兄弟間の訴訟は実に多い。子供のときは仲の良い兄弟でも大人になると、財産争いで仇敵のようになるのもめずらしくない。親にとってはいずれも愛するわが子であるが、財産という禍の種によって子供は親の意に反して争う結果となる。西郷の有名な言葉に「児孫のために美田を買わず」というのがある。禍の種となるような美田(財産)は子や孫に残さない。己の力で財産は築くべきであり、それよりも財産を必要としないほど己自身を強くたくましく成長させよ、と言いたいのであろう。
人として成長するとき、我欲との戦いも必然的に強いられるので、結果として欲は少なくなってくる。西郷のこの逸話にある「欲を離れる」「欲の根拠するところを絶つ」ということはなかなかできない。生きるという生命維持本能は人間にとって最も強い本能であり、そこに巣くう我欲は人間の体と共生しており死ぬまで離れることはない。しかしながら我欲があることを意識することで、さまざまな形態の欲を意志でコントロールできるのである。そうすることで我欲に克ち続けるならば自ずと欲は少なくなって来る。欲へのこだわりが薄くなり、その分自由となった心は他者へ四海兄弟の意識を抱くようになるであろう。
西郷が主張する「一家親睦の方法」は、まさしく現在の世界の国家に当てはまるものである。大国がエゴという自己主張ばかりせず、国家間の親睦を保つことに真摯になるための正しい処方箋と言える。大国が欲を離れ、欲の根拠するところを絶つという意識がなければ世界の混迷は深まるばかりである。
一家親睦の箴翁、遠島中、常に村童を集め、読書を教へ、或は問を設けて訓育する所あり。一日問をかけて曰ふ、「汝等一家睦まじく暮らす方法は如何にせば宜しと思ふか」と。群童對へに苦しむ。其中尤も年長けたるものに操坦勁と云ふものあり。年十六なりき。
進んで答ふらく、「其の方法は五倫五常の道を守るに在ります」と。翁は頭を振って曰ふ、否々、そは金看板なり、表は面の飾りに過ぎずと。因つて、左の訓言を綴りて與へられたりと。此の説き様は、只当り前の看板のみにて、今日の用に益なく、怠惰に落ち易し。早速手を下すには、慾を離るゝ處第一なり。一つの美味あれば、一家挙げて共にし、衣服を製るにも、必ず善きものは年長者に譲り、自分勝手を構えず、互に尽すべし。只慾の一字より、親戚の親も離るるものなれば、根據する處を絶つが専要なり。さすれば慈愛自然に離れぬなり。