西郷党BLOG

仕末に困る人 西郷吉之助 2p013-第一章_11

仕末に困る人西郷吉之助

第一章 仕末に困る人

子供に財産は残さない

西郷の有名な言葉に「児孫のために美田を買わず」という言葉がある。私は子や孫のために財産を求めて、そしてそれを子孫に残すことはありません。あなたがもし私の行動を見て、「なんだ、西郷さんは美田を買わずなどと言っているけど、日先だけで実際は子供のために財産を残しているではないか」と判断したら、西郷は実につまらない男だと見限ってかまわない、と述べている。
親であれば我が子のため財産の一つ二つは残したいと思う。子供が人生を苦しむことなく、生活が保証されるだけの財産があればと思う。親が子に財産を残そうとする行為は、子を思う親の気持ちである。子や孫のためだと思うと働きがいもあり、楽しくもあり、残せるという自身の達成感もあるであろう。

しかしながら親の心、子知らずというのか、親が残した財産をめぐって兄弟、親子間のトラブルは枚挙にいとまがないほど実に多い。人間は動物である。「めし」を食っていかないと三日と生きていけない動物である。「食べるし」との安定供給を確保することは、生きていく最低の条件である。親の残した財産は苦労しないで得られる「食べること」の保証である。分け前をめぐる兄弟の戦い、憎しみと憎悪むき出しのまさに動物同士の戦いである。
西郷が青年時代まだ郡方書役のころ、薩摩藩で藩主の座をめぐり兄斉彬派と弟久光派の間に、すさまじい怨念の争い「お由良騒動」があった。この事件は、薩摩藩主十代斉興が家督を世子斉彬ではなく弟久光に相続させようと思ったことに端を発した。

幕府の老中や他の諸侯とも親交があり英明さは当代一と評される斉彬が藩主になると、やっと立て直したばかりの藩の財政が再び逼迫することを恐れた斉興は、斉彬が四十歳を過ぎてもなかなか家督を譲らなかった。この間久光の生母である由良は「後継者に久光を」と思い活動した。これにより、世子斉彬派と久光派に分かれ対立はエスカレート、双方による調伏。呪殺・毒害などの陰謀が企てられた。さらに実力による他派排撃が画策され、ついに久光派により斉彬派の主だった者、十四人が切腹、九人が遠島という悲惨な結果に至った。この事件のとき、西郷家と関係があり斉彬派の中心人物であった物頭役赤山靭負は、着ている肌着を西郷の形見とするように言い残して切腹したという。私の父もわずかばかりの土地をめぐり兄弟と争った。自分の手で獲得した財産であれば争いはないが、親からの相続となると、全国至るところで争い合っている。何も庶民ばかりではない。ヨーロッパの王家・王族、中国の歴代王朝、その他の国々の戦争は国と国との奪い合いである。人類の歴史は地上の誰のものでもない土地の争奪戦であると言ってもよい。二〇〇八年の現代では、石油や天然ガスといった資源が争奪の材料になっている。太平洋戦争ももとはといえば、石油を日本が確保するための資源戦争であった。大航海時代のヨーロツパ、帝国主義時代のヨーロッパは世界中の弱い国や民族から土地や物を奪い取った歴史である。

西郷は中国の古典や経書を研究していたから、人間の際限のない欲望がいかに人を不幸にするかを知っていた。また、欲を少なくすることが人と人とのかかわりの中でいかに大切かも知っていた。「美田を買わず」と言葉にしたのは、聖賢の道を行く西郷にとっては当然のことであるが、維新後に成立した新政府の状況も関係していただろう。新政府の要員はほとんどが討幕に参じた薩長土肥の下級武士であった。彼らは政府の高官となり、大名屋敷に住み利財に走った。これを見て西郷は情けなく思い、また苦々しい気持ちだったはずだ。維新第一の功労者である自分が質素に振る舞うことで彼らに反省を促す意もあり、あえて「私は美田を買わない」と口にしたのではないかと思われる。
現代の日本においても、国会議員も地方議員も二世三世議員が多い。政治家という職業は一つの財産のようにみなされ、子孫に譲りたいもの譲るものとなっている。

討幕という大目的のために、王政復古という大義のために、そしてなによりも欧米列強の侵食から日本を守るためには、徳川幕府に代わる新しい政府を樹立しなければならなかった。そして多くの犠牲を払い、 一つの目的のために私心を捨てた義の戦いではなかったのか。それが成立して間もないよちよち歩きの明治国家であるのに、義戦の思いを忘れ、皆一様に目先の欲にとらわれ猟官や蓄財に奔走している。

このようなことでは、多くの将兵の血を流した戊辰戦争は単なる私利私欲のための戦いであったことになる。それでは犠牲になった将兵に申し訳がたたない。これでは単に薩長が徳川幕府に代わっただけのことである。実際、西郷の次弟吉次郎はこの戦いで戦死している。西郷は吉次郎の死を悲しみ申し訳なく思った。西郷が斉彬に見い出され国事に奔走することになったため、西郷は家のことをほとんど顧みることができなかった。おまけに三度の島流しである。両親が早く亡くなったため、残った弟妹の面倒から家事一切を次弟吉次郎が取り仕切った。自分が国事に奔走できるのも吉次郎のおかげであると感謝し、また申し訳なく思った。ある日、吉次郎に向かって「自分は西郷家のことは何もできず、弟の吉次郎に頼りっばなしになっている。自分が弟で吉次郎が兄のようなものだ。今日からは西郷家の長男になってくれ」と言ったという。
吉次郎は家内(西郷家)のこともひと段落したということで自分も国のために働きたいと、官軍に加わり東北地方を転戦していた。大総督府参謀西郷の実弟であれば、それなりに優遇され危険の多い前戦にわざわざ行くことはなかったと思われるが、しかし一小隊長としての戦死であった。
それが兄吉之助や西郷家にある「サムライの気風」であったかも知れない。

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