第二章 信長と西郷
信長の思想と西郷の思想
信長は徹底した無神論者である。人間の生命はこの世で生きている限りのものであり、死ねば灰となり無であると考えている。信長は趣味として舞は『敦盛』を一番舞うのみで、小唄は「死のふは一定、しのび草には何をしよぞ定かたりおこすよの土早(死は必ず訪れる。死後、私を思い出してもらうよすがとして何をしておこうか。
きっとそれを頼りに思い出を語ってくれるだろうとのみを唄っていたと信長公記にある。
『敦盛』にあるように、人間を五十年と断じ、何人にも平等に訪れる死に対して、その期間に己が何をするかが人生であり、そして人生の舞台で己の「テーマ」を演じることが人生そのものであると考えたのではないだろうか。
信長十七歳のとき父の信秀が死去し、万松寺で盛大な葬儀が行われた。『信長公記』には旅の修行僧も多数参会し、僧侶の数は三百人に及んだと記されている。焼香のときになったが喪主信長は現れない。やむなく弟信行に焼香の順を変えようとしたとき、突然信長が現れた。その時の信長の出で立ちは、長柄の太刀と脇差しをわら縄で巻き、髪は茶完髪に巻き立て袴もはかない。親族や一族が居並ぶ中、仏前に進み出て、焼香をかっとつかんで信秀の位牌へ投げかけて帰った。弟信行は折り目正しい肩衣・袴を着用し礼にかなった作法であったと、『信長公記』は信長と弟信行を対比して記している。
現代でも弟信行の行動は常識であり信長の行動は異常である。同じ年齢でも庶民の出の秀吉がとる行動ならまだしも、大名の嫡子としての行動である。人間社会というものの慣習。しきたり、仕組み。階級や生きる目的や常識といったものに対して明確な思想を持っていなければ、信長のような行動はできない。人間という生命体の親と子の関係、兄弟の関係、そして自己と自己以外のすべてとの関係に対する信長独自の思想があったのであろう。
後に、信長が戦国乱世を平定したとき、安土城の中に総見寺を建て信長自身を御神体として祭り、安土に来る人々に拝ませたという。これは、信長の領国を庶民が自由に往来でき戦国乱世を平定し平和を招聘したのは、神や仏ではなく信長であるということを暗に分からせる意図があったのではないか。現世の不条理は神や仏が治せるものではなく、現世に生きている人間のみが正すことができると覚醒させたかったのではないだろうか。何もしない神や仏を拝むぐらいなら現実に平和にした信長に感謝すべきだと思っていたのであろう。
副 しかしヽまわりの人々は神も仏も敬わぬとは僣越な思い上がりと不快に感じた。ことの信長の神をも恐れぬ思想によって、何をするかわからない危険人物と見なされ、当土早時の朝廷。公家ら既得権益者に信長排除の作用が働いた。これが本能寺の遠因ではなかったのではないだろうか。
琉球新報二〇〇八年五月十五日の朝刊に、アインシュタインが晩年、ある哲学者への手紙で「神という言葉は、私には人間の弱さの産物という以上の意味はない」と書いていると、この手紙を近く競売にかけるロンドンの古文書類競売業者が明らかにした、という記事が載っていた。ニーチェではないが、人間はそろそろ神を卒業する時期が来ているかもしれない。
西郷は信長とは違った。信長のように無機質的な思想ではなく、生死は天が付与するものであると考えた。天という万物を生成育成する善なる意志が、万物の生と死をつかさどっていると考えた。西郷は沖永良部島に流されていたとき、「獄中有感(獄中に感有りごと題する漢詩の中で「生死何ぞ疑わん、天の附与なるを」と言っている。
月照との入水事件で死んだと思っていて、生き返らされたこと。沖永良部島で囲い牢の中にあって、自己の運命を試すかのごとく、死と自ら対峙したにもかかわらず、再び生を得たこと。奄美大島や沖永良部島での人々の身に余る親切・思いやり。やさしさに接し、これらも天の慈愛であり、自身が天により生も死もなく生かされていると感じたこと。主にこれらのことを材料として醸成されたのが、後の「敬天愛人」の思想になったと思われる。
西郷は、土持政照から与人(村長)や間切横目(郷中監査役)の心構えを問われて、天の思想に基づき『与人役大体』『間切横目役大体』を書いて心構えを教えている。海音寺潮五郎氏はその著『西郷隆盛』でこの『与人役大体』について次のように解説している。
「西郷の役人論に基づくところは、それが敬天愛人の哲学であり、天に対する信仰である。彼は天を万有の根元とし、天の機能を仁愛であるとしている。これは儒教の哲学であるが、それが何の抵抗もなく彼に受容されたのは彼が天性最も愛情深い人柄だったからであろう。敬天(天に対する信仰)と愛人(民に対する無私の愛)とが、彼においては一体化し、楯の両面となった。彼はこの自らの哲学によって天皇の本質酬 を説き、諸侯の本質を説き、役人の本質を説いている。彼においては役人は天の手先である。同様に諸侯も、天皇も天の手先ということになるわけであろう。このことは土早 与人役大体には書いているわけではないが、論理の必然でそうなる。ある意味では恐ろしい思想である。これほど思い切った思想を抱いていた維新志士は恐らく他にいないであろう」
「役人たるものは、天の本質である仁愛を体して、その具現をすべきであるというのである。諸侯もまたしかり、天皇もまたしかりである。だから、役人の場合は、もし上役、たとえば代官が民に対する愛という点において納得の出来ないことを要求するようなことがあったら、納得の行くまで問い返し、諫言せよというのである。諫言しても聞かれなかったらどうすべきかは書いていない。職を退くべきであるというのであろうか。それとも場合によっては造反も可なりというのであろうか。…中略…。一面、世俗的には最も危険なものを含んでいたといえるであろう」
「敬天」と「愛人」の思想を忠実に直結させようとすれば革命的にならぎるを得ない。
西郷の『与人役大体』にある諫言をするという意味で、政府に反省を求めての行動が西南戦争に発展したのである。西郷の考えの根底に民に対する愛がある以上、不正義は許されないことであり、それを座視することは思想に忠実であればあるほど、できないことである。
西南戦争は当初、明治政府に反省を求めるための行動であり、それが戦争に発展したのである。その原因は西郷の思想もまた大塩平八郎的要素を多分に含んでいたための結果であるともいえる。