第二章 信長と西郷
世界に誇れる信長と西郷
信長と西郷は世界史の人物伝に出しても堂々と渡り合え、キリスト、釈迦、孔子を別とすれば、一位や二位に位置するのではないか。信長や西郷といった人物は世界史でも類を見ない。信長と西郷は世界に自慢でき日本人が誇れる人間である。
アレクサンダー大王、カエサル、ジンギスカン、ワシントン、ナポレオンは信長に比べるといろいろな面で見劣りがする。総合力においても、信長を「横綱」としたら「大関」「関脇」ぐらいである。信長の場合はその事跡を検証すれば、多くの人がなるほどと思うであろう。
歴史に「もしも」はないが、信長の力量は抜群であったので、あえて信長が秀吉の年齢まで生きていたと仮定する。信長の非業の死がなかったとして、時は一五八二年(天正十年)六月である。
一年以内に日本を統一し二年後には居城を安土から大阪へ移し、スペインやポルトガルとの南蛮貿易を大阪、堺、博多を拠点に大々的に実施し、外国の産業や技術を取り入れたであろう。さらに長崎。大分・鹿児島・広島を貿易港として開港し、当時中国の明王朝に進貢貿易をしていた琉球王国を支配下におき、琉球王国をとおして明の政情、経済状況、民政などの内部情報を収集したであろう。また、フィリピン(マニラ、インドネシア(ジャカルタ)、タイをはじめ東南アジアの諸国とも積極的に交易し、同時にスペインやポルトガルによる東南アジアの国々への侵食状況も把握していたであろう。
一方、国内では富国強兵策を実施し楽市楽座を日本国中に広げ、大阪・堺・博多・広島。大分。長崎・鹿児島は自由貿易都市とし、世界の産物と情報を集めたであろう。
特に科学技術の開発には力を入れ、鉄砲の改良と量産、さらに大砲や火薬など火器の開発と量産をしたであろう。国内での金銀の増産も図り信長流の中央集権国家を完成させたであろう。日本統一からここまで三年を要したであろう。このとき、鉄砲の数は長篠の戦のときの三千丁から百倍の三十万丁に達し大砲の数は三千門を超え、外海用の鉄板を張った大型船(すでに国内統一戦の毛利との戦いでは、内海用の鉄張り船は造ってあった) 一千隻を擁していたであろう。
日本統一から満五年後のある時期、博多と新潟のニカ所から信長は五十万人の兵力を以て朝鮮半島に攻め入ったであろう。十分の火器と兵靖とで六カ月で半島を平定したであろう。ここでは民政に力を注ぎ経済と貿易を発展させ、琉球王国や東南アジアとも交易させ、日本中からの移民を積極的に進めたであろう。この間、信長は台湾を領有し、さらにフィリピンを支配下におき、ベトナムに拠点を設けたであろう。
朝鮮半島制圧から二年後、満を持した信長は百二十万人の兵力をもって、さながら元寇のように中国大陸に攻め入ったであろう。ベトナムから広東省へ向けて十万人、台湾から福建省へ向けて二十万人、鹿児島・博多から上海へ向けて四十万人、朝鮮半島の国境から明の北京へ向けて五十万人の兵が一斉に侵攻したであろう。中国の沿海州は以前から、信長の意を酌んだ和寇が何百何千という船でゲリラ的に攻めていたであろう。さしもの明王朝はそのため疲弊し、侵攻後わずか半年で崩壊したであろう。
さっそく信長は日本に近いという理由で居城を上海に移したであろう。ここでも民政に力を入れて経済と貿易の発展に力をそそぎ、日本からの移住と領国であるフィリピン、ベトナム、台湾、朝鮮半島からの移住を積極的に進めたであろう。中央アジア、ロシア、インドとの交易も盛んに進めたであろう。日本統一から六年後、信長は領国に日本、朝鮮半島、中国、台湾、琉球、フィリピン、ベトナム、インドネシアを有し、文字どおり大アジア共和国を建設するに至った。
当然このぐらいのことは、織田信長であれば宣教師フロエから贈られたという地球儀を眺めながら考えていたことであろう。また生きていたら実行していたであろう。
それほどの人物であった。さらにその次は、信長の目はヨーロッパに向けられたであろう。ヨーロッパをも制圧したかもしれない。ヨーロツパの大航海時代に始まり産業副革命を経て武器と科学技術により、世界史は白人中心の世界史になっていたが、信長と艤により東洋人中心に変わっていたかもしれない。
当時のヨーロッパの列強といえるスペイン、ポルトガル、イギリスはすでに日本に来航していた。信長は生きているとき、フロイス、オルガティーノ、ヴリニヤーノといった宣教師ともたびたび会い、それぞれの国の情勢もある程度知っていた。スペインやポルトガルがあからさまに日本に侵攻して来なかったのは、日本の国力が宣教師を通じて本国に知らされていたからであり、国力がはるかに劣っていたら中南米の諸国のように侵攻されていたであろう。
信長の時代の日本は、鉄砲の数といい、その生産技術。量産数といい全くスペイン・ポルトガルに劣るものではなかった。三千丁の鉄砲をそろえ長篠の戦で武田の騎馬軍団を職滅させた戦術といい、大砲や鉄張りの軍船といい、当時のヨーロッパでは考えられないことであり、天才信長をもってすれば、ヨーロッパの列強も恐れる相手ではなかった。
それが秀吉。家康と権力者が代わり、日本が鎖国という全くの引きこもりの状態になったまま、三百五十年の時を経て再び今度はアメリカ、イギリス、フランスという欧米列強の来攻を幕末という時期に迎えたのである。三百五十年の鎖国のため、兵器に格段の開きができ国力が全く違った。だから恐れ慌てたのである。討幕し明治国家を成立させたまではよかったが、その後はどっしり構えて欧米列強の情勢を収集し分析し、欧米人の本質を見抜き戦略を立てるべきであった。
ペリーの浦賀来航、薩英戦争、四国連合艦隊の下関占領など欧米列強の火器の威力を見せつけられ、大久保、木戸ら新政府の主要人物が欧米列強のすべてを過大評価するあまり萎縮してしまった。このことが新政府が設立されたばかりのとき、一八七一年(明治四年)十一月から約二年近く、大久保、木戸、岩倉ら政府の半数に及ぶ主要人物を欧米列強に、小学生の修学旅行じゃあるまいし、大挙して見学に出かけさせた。
結果、欧米列強の文明と科学技術を目の当たりにして圧倒され、そのショックがトラウマとなり、日本人の心に少なからぬ白人コンプレツクスを植え付けることになった。
このコンプレツクスの反動が日清、日露、日中、太平洋戦争の遠因であったかもしれない。
西郷は信長とは違った。その存在は一個人であり、個人の力量を高めること、西郷流で言えば、人間としての高みに登ること、すなわち聖賢になることが人生の最重要事であった。幕末動乱の中で薩軍を率いて戦ったのも、官軍大総督府参謀であったときも、明治になり参議陸軍大将の地位にあったときも、聖賢にならんとする人間西郷が行動したということである。だから、行動の判断基準が常人と少し違っていた。西郷は『遺訓』の中で、己を成長させるためには「尭・舜(中国の伝説で徳をもって天下を治めた古代の理想的帝王)をもって手本とし、孔夫子(孔子)を教師とせよ」
と言っている。極言すれば、西郷はキリストや釈迦や孔子といった聖人は、教えで人を救うことができるが、本当は尭・舜のような政治(治世)で国民を救うべきだと考えていた。その方がより多くの人を救える。
二〇〇八年、北京オリンピツクのさなか、中央アジア・グルジア共和国の自治州南オセアチアをめぐり、グルジア軍とロシア軍がともに南オセアチアに侵攻し二千人を超える死者を出した。地球上においても各国の利害のあり方や、共存共栄の仕組みを考え直すべきときである。西郷は己自身が聖賢を目指し、その帰結として日本を尭・舜の治世のような国家に成したかったのである。日本史の中でも世界史の中でも、政権のトップにいた人間がこのような考えを持っていた例はほとんどない。