第五章 西郷と政治
明治天皇を超えた
一八七一年(明治四年)、木戸とともに参議となり政府最高首脳であったとき、西郷はこれまで天皇の側近には女官が多く侍していたのを改め、侍従に武士階級から山岡鉄太郎、村田新八、島義勇、高島輌之介、米田虎雄といった硬骨で誠実で豪傑といった人材を選んだ。明治天皇は一八六四年(元治元年)のハマグリ御門の変のとき十三歳であったが、砲声に驚き気絶したという。列強が覇を競う中で諸外国と交わるとき、西郷としては天皇は新国家の統治者として英雄的君主でなければならないと考えていた。
西郷は山岡鉄太郎や村田新八、島義勇らに自分の考えを話し、彼らに鍛えさせた。
山岡鉄太郎(鉄舟)は幕末の剣豪であり無刀流の開祖である。身長は六尺二寸(一八八センチ)、体重は二十八貫(一〇五キロ)あった。その山岡が明治天皇の角力の相手をしたが、決して負けてあげることをせず、何度も打ち負かしたという。「命もいらず名もいらず、官位も金もいらぬ人は仕末に困るものなり」と西郷が言った「仕末に困る人」とは、山岡鉄太郎のことを西郷が評したのではないかと言われている。官軍が江戸に向っているとき、山岡は官軍がひしめく敵中を単身突破し、静岡にある征東軍の本陣まで乗りこんできて一身を顧みず、将軍慶喜と徳川家のため西郷と談判をした。その見事さと山岡の人物にほれた西郷が幕臣であったにもかかわらず、山岡に頼み込んで明治天皇の侍従としたのである。
西郷は鹿児島の叔父椎原与三次あての手紙で、明治天皇の教育の様子を「士族からお召出しになった侍従はとりわけご寵愛で、修業に勉励のご様子は実におさかんなことであります。(中略)和・漢・洋の学問にお励みで侍従達と会読を遊ばされることもあり、寸暇なくご修業におつとめであります」と書いている。これは若き明治天皇ヘの西郷の情愛のこもった手紙である。
一九二七年(昭和二年)発刊の『大西郷全集(伝記編とでは、「君(明治天皇)を尭舜にすることを理想とした隆盛は、その第一着として一八七一年(明治四年)七月宮内の仕官に初めて武士を任用することとした」と記されている。また一八七一年(明治四年)七月十四日、廃藩置県の大令が公布される前日、「西郷は参朝して主上(明治天皇)からの御尋間に対し『恐れながら吉之助がおりますから』と奉答して叡慮を案じ奉った」とある。
暴動も予想されかねない廃藩置県の断行に明治天皇は少なからず不安を抱かれたのであろう。吉之助がおりますからという言葉は西郷の山のような大きな自信であり、そして天皇の最大の安心となったことであろう。西郷の明治天皇への接し方は慈父のごとくであり、君臣水魚の交わりであった。それは斉彬と西郷との接し方でもあった。新しい明治国家の若き天皇に対する西郷の心持ちが、分かるというものである。