西郷党BLOG

仕末に困る人 西郷吉之助 2p055-第六章_02

仕末に困る人西郷吉之助

第六章 這韓使節論

大久保の最大の危機

大久保は一八七三年(明治六年)五月二十六日、木戸、岩倉に先立って帰国した。直後、大久保は西郷と会談し、留守政府の手によって重要な改革。人事はしないと出発に際し約定したことが無視され、多くの改革が実施されていたことに対し西郷を強くなじったという。岩倉が帰って来たのは九月である。二年近く国を空けて重要なことは何もするなという方が間違っている。うっかり外遊でもしようものなら帰る国がなくなっていたということはよくある例である。

西郷政権は留守の役目をよく果たした。明治の諸制度の創設。改革の多くはこの時期に実現している。西郷政権で十分やっていけるほどに発展していた。
国や県の公務員の組織でもそうであるが、部長や局長が急にいなくなったからといって組織機能は停滞しない。たとえば農水省の大臣が頻繁に代わっても、農水省は何事もなかったかのように機能している。事務次官であれ局長であれ、省庁の幹部が病気などで長く職に就けなくても代替作用が働くことになっている。

事務次官や局長はその省のトップではあるが、職務と権限は限られている。極言すれば、その職務と権限を行使できる人であれば誰でもよいのである。組織というものは、 一係官の職務権限から、主任、係長、課長、部長、局長、次官までの職務権限が細かく分割され、分割された多数の職務権限の集積が一つの省という組織を形成している。民間企業の創業者オーナー社長の場合であれば、社長がいなくなったら会社の存亡にかかわるであろうが、国や県の組織でそれはない。
廃藩置県により中央集権化するために太政官を三院に分け、行政機関としての八省を置くという政府機構の改革を行った。それは組織・機関によって全国を統治する形態をつくるためである。西郷の留守政府においては、すでにそれが機能しつつあった。
ここに大久保の誤算がある。


行政機関であり権限執行機関である省を支配することが、かつての藩と領民を支配する以上の権力基盤であると大久保は考えていた。自分が長である大蔵省に、改革により廃された民部省の権限と機能を移し、大蔵省を強大にした。それはとりもなおさず大久保の権力を強大にしたことになる。そして外遊に際しては、自己の権力を維持するため、次官に丼上馨を置いた。要するに省の長であることが、あたかも藩主であるかのような思い違いをしていた。それゆえ大蔵省に地方行政・土木・交通。通信といった一見場違いに思える機能と権限までも集中させた。しかし、大蔵卿大久保は大蔵省という機関の長であり、領主のごとき所有者ではない。
この例として、井上が汚職事件で司法省という違った機能と権限を持つ機関から追及され、部下の渋沢栄一が責任をとらされ辞職させられた。警察権という権限を持った司法省には、その権限においては、たとえ大蔵省の長であっても抵抗できないことが分かった。

もう一つの大久保の誤算は、西郷は軍司令官としての軍事能力はあっても、政治家としての能力はないと思っていたのが、留守政府の運営で政治家としての才能があることが分かったことである。西郷は前線で指揮する司令官としての才能があるから、幕末若い藩士や兵士から人望を集めたと思っていた。それが西郷に留守政府を任せたことにより、思わぬ西郷の政治能力の高さを知らされた。西郷に人望をあわせ持たれると、政権内において自分の立場は弱くなるという脅威が、大久保をして慌てさせ行き着いたのが征韓論争である。大久保最大の危機は政治手法の違う西郷が権力を持つということは、自身が営々と築いた久光、岩倉、大蔵省という権力基盤が西郷の手により瓦解させられるということである。これは大久保にとっては、あらゆる手段をとっても勝たなければならない生死を賭した戦いであった。

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