第六章 這韓使節論
遣韓使節論
西郷が「征韓」という言葉を使ったことも、日にしたこともないということは資料で証明されている。しかし、「征韓」という言葉は使っていなくても、全権大使として西郷が開国の説得に行くと言っているので、当地で西郷が殺されたら朝鮮と戦争になるのは必定である。また本人も死を覚悟していたという伝間がある。これらのことからとにかく西郷が朝鮮に行けば戦争になるという前提のもとに、維新設立まもない時期に戦争はすべきではないという「内治優先派」が現れ、「征韓派」と論争する格好になってしまった。
普通に考えても、 一八七三年(明治六年)のこの時期、無謀な征韓論と内治優先では内治優先の方に筋が通っているのは明らかだ。征韓論は西郷が下野し何も語らず、四年後には西南戦争となり賊軍の将として死んだため、その真意はいまだに分かっていない。しかしながら、人間には思考・行動のパターンがある。幕末、第一次長州征伐のとき、征長軍総督・徳川慶勝から長州処分の全権の委任を受け、単身広島に行き長州藩幹部に会い寛大な処分を決定した。そして江戸城無血開城、山形荘内藩に対する寛大な処分、これらのいずれも歴史が証明するように良い結果となっている。
西郷は「未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説論して開明に導くべき」と言っている。朝鮮に対してもそのようであらねばならず、よもや西郷が言行に反しているとは思えないのである。征韓論争は感情の入った権力闘争である。しかしながら、その勝者がその後の日本をつくったのも事実である。いわゆるこの明治六年の政変は原点に戻って検証しなおさなければならない。そうすることによって、日本が新たに進むべき道の指針の一つになるはずである。最後に、大久保が木戸に対して「西郷さんが責任を持って朝鮮に行くと言うのだから、何も心配することはない。戦争などあり得ない。万事、西郷さんがうまくやってくれる」と説得してくれたら、あるいは留守政府が約束を守らなかったことに対し「西郷は下関で待機せよという久光の命令も無視するぐらいだから、また政治は生き物とも言うし、われわれは留守政府にまかせっきりにして外遊したことでもある。政治がよくなっていることでもあるから、しようがないことである」と大久保が西郷を許したら、その後の日本の歴史は変わったであろう。