西郷党BLOG

一箇の大丈夫 西郷吉之助 p010 第一章-08

一箇の大丈夫西郷吉之助

人を相手にせず天を相手にせよ

人生を単純明快に生きる。人間関係も単純明解でありたい。しかし、人間は人間によって悩まされる。

「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽して人を咎めず、吾が誠の足らざるを尋ぬべし」。『遺訓』二十五項にある西郷の言葉である。西郷は人づきあいはへたな方ではないが、誰とでもつきあえるというわけではない。誠実な人が好きである。

篤実、真面目、義の人、勇の人、そして志ある者を好む。前途ある有為の若者が好きであり、志を持ち強くたくましい人間に育つことを常に願っている。それは西郷自身若いとき、名君斉彬に見いだされ、教育を受け育てられたことへの感謝と、また何よりも若者が志を持ち強くたくましくなることこそが国の発展につながると思うからである。征韓論で下野し郷里鹿児島で私学校をつくったのもこのためである。それ以外に他意はなかった。

人は自分以外のさまざまな人とのかかわりの中で生きている。多くの人は自己を利することを第一に考え、自分は正しい、間違っていないと信じ込んでいる。その上、一人ひとりが独自の正義を持っているからやっかいである。人間というわがままで横着で、なまけもので身勝手な者同士が互いに影響を与え合いながら生きるのである。

そこでは人間特有の嫉妬、ねたみ、ひがみなどマイナスの感情をはじめ、支配欲、権力欲、名望欲、独占欲といった人間が持つさまざまな欲望がうずまく。そしてそれらが複雑にからみあったり重なったりして、人間関係をわざわざ複雑怪奇にしてしまっている。単純明解に生きられる方法はいくらでもある。少しばかり我欲を少なくして人の道を行えばよい。そして人としての強さと大きさを持つことである。そうすれば、白昼に無人の往来を行くがごとく天下堂々の人生を歩める。

たとえ己が正しいと信じることを行ったとしても、自己流の正義と我欲と死の恐怖が錯綜する、さまざまな人間関係の中に放り込まれると、それを受けとる側の各人の思惑によって千差万別の反応が現れる。自分自身が「よかれ」と思ってする行為であっても、受け取る人にとって迷惑であったり、かえって嫉妬やうらみつらみの対象となったりするのである。西郷自身このような経験は何度もしていた。

島津久光の怒りを買い、沖永良部島に流されたときもそうである。主な原因は、同志である海江田武次、堀次郎らが久光に対し不実の報告(西郷は文久三年三月二十一日の得藤長〈奄美大島龍郷の間切横目〉への手紙で「実に人間というものは頼みにならないものであ
ると、今度はじめて思いあたりました。人の心は猫の目と同じように変わりやすいのですね。少年のころから同志であると信じていた者が、拙者のボロクド〈後頭部〉に食いついたとは案外なことでした。今やボロクドの歯形がとれ〈冤罪がはれ〉そうな塩梅ですが、拙者が放免になって帰国しましたら、どんな顔で拙者に会うつもりでしょうか。今からおかしく思っています」と述べている)をしたことである。

西郷はどういう意味で「人を相手にせず天を相手にせよ」と言ったのであろうか。人(小人)は相手にしてもつまらぬから相手にするなということではあるまい。人(人間)を対象とすると、相手に見返りを求めたり、「誠意がない」「恩をあだで返す」「言うことを聞かない」「反省しない」など自分自身が相手に不平不満を持ったり、己の私欲を基準として人(相手)の反応に対処してしまう。それは、相手の利害得失に応じ自身もまた自己の利害得失で応じていることになる。それでは人の道の修業はできない。

自分自身の心の中にある無私の心(天地自然の道すなわち天)を相手(対象)とせよ。そうすれば人(相手)の反応で自身が左右されることはない。天を相手(対象)とすれば、あとは自分自身がいかに無私の心で物事に対応できるかだけなのである。

このように解釈すれば、次の「天を相手にして、己を尽して、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」と語る西郷の真意が分かってくる。己と天との戦いなのだから、人が恩を返そうが返すまいが誠意がなくても、言うことを聞かなくとも咎める必要は全くないのである。あるのは己自身が物事に誠(無私)をどれだけ行っているかどうかが問題なのである。それを自分に問えと西郷は言う。しかしながら、西郷のこの言葉を実行できる人は少ない。人の非は鳴らすが、自分の非は認めないのが普通である。

近年日本ではモンスターペアレントやクレーマーという言葉がはやっている。自分のことは棚に上げ他人の過ちを過剰に攻撃するのである。交通事故を起こしたときも先に謝った方が負けだということになっている。謝ったり自分の非を認めたりしたら不利になり損をするという風潮はどうだろうか。

伝記をみると、西郷はよく謝っている。体の大きな西郷が素直に年寄りや身分の低い人にもよく謝っている。現代のような生き馬の目を抜く世知辛い世の中で、非を認めたり安易にあやまったりしたら、それこそ生きて行けなくなる。利害得失にかかわる個人のレベルにおいては、無理からぬことと言えなくもない。

しかし、この風潮が政府や公務員にあるのはどうであろう。大人の社会では非を認めない、多少の悪は隠しとおす、過ちは改めない。これらを強行したら何か手柄でも立てたかのように強者とみなされがちである。特に政界、財界やビジネス社会で目につく。非を認める、悪いと思ったことは直ちにあやまることは大切である。

どうもこのところ日本の首相は能力あるなしはともかく、なった者勝ちの観がある。首相の地位は誰のための地位なのか。自分のための地位と思っていないだろうか。あなた以外にも首相の仕事ができる人はほかにいくらでもいる。首相が相手にすべきは、利害得失がある人ではなく国民(天)のはずである。それほど重い職といえる。

次は、『遺訓』十九項にある西郷の言葉である。
「古より君臣共に己れを足れりとする世に、治功の上りたるはあらず。自分を足れりとせざるより、下々の言も聴き入るるもの也。己れを足れりとすれば、人己れの非を言へば忽ち怒るゆえ、賢人君子は之を助けぬなり」

(昔から主君と臣下が共に自分は完全だと思って政治を行うような世にうまく治まった時代はない。自分は完全な人間ではないと考えるところからはじめて下々の言うことも聞き入れるものである。自分が完全だと思っているとき、人が自分の欠点を言いたてると、すぐ怒るから、賢人や君子というようなりっぱな人はおごりたかぶっている者に対しては決してこれを補佐しないのである)


日本の政治もこのような状態になってはいないだろうか。大丈夫とは「天を相手にして己れを尽して人を咎めず」である。自分自身の誠心誠意をどこまで行うことができるのか。百%できるのか。五十%できるのか。それを自分自身に問うことである。

私(わたくし)を持たない天地自然・天に対して、私(わたくし)を持つ人間(自分自身)がどれだけ私(わたくし)を少なくできるか、自分自身との戦いなのである。

そこに人(他人)は存在しない。「人を相手にせず、天を相手にせよ」。なんとも素晴らしい言葉である。

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