西郷党BLOG

一箇の大丈夫 西郷吉之助 p012 第一章-10

一箇の大丈夫西郷吉之助

大丈夫の心胸

「翁に従ひて犬を駆り兎を追ひ、山谷を跋渉して終日猟り暮らし、一田家に投宿し浴終りて心神いと爽快に見えさせ給ひ、悠然として申されけるは、君子の心は常に斯の如くにこそ有らんと思ふなりと」(『遺訓』四十項)

(翁に従って犬を走らせ兎を追い、山や谷を渡り歩いて終日狩り暮らした夕暮れに、いなかの家に宿られ、風呂に入って身も心もきわめて爽快にうかがわれるとき、ゆったりとして言われるには「君子の心はいつもこのようにさわやかなものであろうと思う」と)風呂あがりのさっぱりとした爽快な気分でいつもいたいものである。西郷のひと風呂浴びた後の顔が見えるようだ。不安や心配で悩む人は多い。何が不安で何が心配かは分からないが、人はとにかく悩むことが大好きである。

いろいろな不安や心配が向こうからやって来る。多くはそれを拒まずに受け入れ過ぎてしまう。大小さまざまな悩みが次から次にやってくるので心はその対応に振り回されている。また、人によっては自ら不安や心配をつくり出し、その生み出した悩みによって悩まされている人もいる。

西郷であれば「何も悩むことはない。大丈夫の胸中は『洒洒落落、光風霽月の如し』(心の中はさっぱりとしてこだわることがなく、あたかも雨あがりに光を帯びた草木を吹きわたるさわやかな風のようであり、また雨が晴れたあとのすっきりとした月のようである)」であると諭すだろう。「それは西郷さんだから言えることで、われわれには悩みが尽きることはない。大体何も悩むことはないなどありえないことである」。多くの人はこう反応するであろう。

西郷とて普通の人間であり悩み多き人生を歩んでいる。私学校生徒が政府の弾薬庫を襲撃し西南戦争の発端となったが、この襲撃の知らせを聞いたとき西郷は「しまった!」と叫んだという。人間にとって不安や心配事は付きもので、それは人間のDNAであるとさえ思える。約五百万年前、アフリカの森にいた猿が安全な森から危険な草原におりて人類の歴史が始まったときから、人間にとって不安や心配といった悩みは切っても切り離せないものである。また、不安や心配があったからこそ、それを克服しようとしたからこそ、今日のように人類が発展したのも事実である。

『手抄言志録』(三十五項)に次のような文章がある。「人の一生遭う所には、険阻有り、坦夷い有り、安流有り、驚瀾有り。是こ
れ気数の自然にして、竟に免まぬがるる能わず。即ち易理りなり。人は宜しく居って安んじ、玩んで楽むべし。若し之を趨避ひせんとするは、達者の見に非ず」
(人の一生の間に出会うところは、道路にたとえれば、険しい処ところもあり、平坦な処もあり、また水路にたとえれば、穏やかな流れもあり、逆巻く大波もある。こういうことは命運の自然で、どうしても免れることの出来ないことである。即ち易に説かれ
た道理である。それであるから、人は自分の居る処に安んじ、これを楽しめばよい。もしこれを趨り避けようとするのは、決して達人の見識ではない)

『言志録』千百三十三項の中から西郷が選び出した百一項を読むと、いかに西郷が人間の生や死の根本について、また人間というもの、人生というものの本質について、人の道と天地自然とのかかわりについて探求していたかが分かる。西郷は何のためにそうしたのであろうか。人間社会の争い、不公平不平等な仕組みやその中で生きる人間の生き方を見るとき、もっとよりよい社会の仕組みや人の生き方があるはずであり、それを探求し体現することが新たな社会や生き方になると思ったのであろう。

そういった意味では新しいタイプの人間であり、人間進化の実験者ともいえる。大久保、木戸、岩倉、伊藤、山県といった維新の元勲はあくまでも普通の人間の範疇に属する。これに対し、「人は道を行う者」とする西郷は明らかに違う生き方や人生観を根本に持っており、いわば新人類である。しかし、実際は西郷が新しいわけではない。人は成人するにつれ社会の仕組みや環境や人間関係に埋没し、その中でいかに生きていくかということが人生の目的の大半を占めてしまい、人の道や生とは何か、死とは何か、人の生きる目的は何か、真剣に探求しなくなる。

西郷の漢詩に「成敗、我が愚を守る」とあるように、独り西郷は道を志す者であり、西南戦争で死ぬまで道を行う者であった。そのような大丈夫、西郷の境地が「予壮年より艱難と云う艱難に罹りしゆえ、今はどんな事に出会うとも、動揺は致すまじ、夫れだけは仕合
せなり」である。

西郷は人生のさまざまな困難を避けることなく受けて立ち、その中で自らの強さと大きさを得たのである。大多数の人にとって、人生における最大の関心事は、生きるか死ぬかであり、欲望が満たされるか否かである。西郷は、この人間の生と死と我欲に動じない境地を見極めた上で、大丈夫の心胸を「光風霽月の如し」と表したのであろう。

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