西郷党BLOG

西郷と松陰 西郷吉之助 p019 第二章-05

一箇の大丈夫西郷吉之助

狂うべし

一般の人の多くは他人から「狂っている」とは思われたくないであろう。また、普通の人は「狂う」ことはできない。他人からはよく見られたい。多くの人は普通であればよいと思っている。「人が皆、善をするなら己れ独りは悪をしろ。人が皆、悪をするなら己独りは善をしろ」という意味の文章が司馬遼太郎著『竜馬がゆく』にあった。この行動は非常に大事である。十人中十人が賛成という中で、独り反対するのは難しい。また、十人中十人が反対している中で、己だけが賛成することもまたなかなかできない。

しかしながら、若いときにこの練習はやっておくべきだ。個を強くしようと思うなら徹底して訓練すべきである。大勢に流されない、迎合しない、時代の波に翻弄されない、他人や世間の評価に左右されない。世間から変人奇人、果ては狂人扱いをされようとも、これらの称号を甘んじて受け、信じる道を行う訓練をすべきである。

西郷も確固たる己をつくろうと、若いときからこれらの訓練をしていた。「世間一般の人が好まないことをせよ」、また「世間の人が好むことの反対をせよ」と唱えている。要は己の心が望むことの逆を行って己を鍛えるのである。これは西郷がよく口にする「己に克つ」訓練である。困難なこと、嫌なことやつらいことに出合ったら、誰しも逃げたり避けたりする。それを西郷はあえて退くなというのである。反対に自分の利になること、たとえば、お金や思わぬ利益が転がり込んできたり、人にほめそやされたり、おだてられたり、自尊心をくすぐられたりしたら、誰しも自己満足し調子に乗るものである。

こういった我欲を満足させることには用心するか、避けるか近づくなと西郷は忠告する。さらに、失敗した責任は自分の責任であるとし、成功した功績は自分のものとせず、ほかの人のものとせよ。そして、常に日ごろからこのようなことを心がけ実行に移し、心を鍛えておかなければならないと主張する。

吉田松陰「二十一回猛士」は「狂」を重視した。精神が病んで狂うのではない。普通の真面目で実直な人間が自ら進んで狂となるのである。松陰も「狂」という字を号に使っている。塾生も盛んに「狂」を号に用いた。幕末動乱の時代、松陰門下の四天王といわれた
高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一は師の志を継ぎ「狂」となり時代を突き動かし、死ぬほどに大いに暴れ、ともに明治を見ることはなかった。そのほかの門下の若き志士も多くは明治を見ることなく死んだのである。

松陰は幕末のような変革期の時代には、自分は狂者とともに仕事をすると述べている。狂人のことではない。自分の信念を強く持ち、周りの人に左右されず己の思う行動をする。傍若無人、奇人変人、乱暴者など日ごろから普通でないと思われている者、いわゆる狂者と行動をともにするというのである。狂者の代表は高杉晋作であろう。松陰は晋作の持つ「狂」を大切にした。幕府により師松陰が処刑されたと知ったときの悲しみは大きく、晋作は「独りででも幕府を倒してやる」と覚悟するほど激しく怒った。

その後、「動けば電雷の如く、発すれば風雨の如し」と伊藤博文が形容したように、晋作は縦横無尽、神出鬼没、傍若無人の行動をして長州藩や幕府を引きずりまわした。第二次長州征伐においては、幕府軍の本軍が守る北九州小倉城を攻め落とし、ついに幕府軍を敗退させるのである。

いわば常識は多数派である。常識の中にいると、人は安心する。そこに安住して一歩も出ようとしない。常識という鎖につながれると、その鎖を自分で断ち切ることはなかなかできない。常識や既成概念を打ち破るには「狂」という別のエネルギーが必要となる。
武士道について説いた書として有名な『葉隠』に、「無分別は虎口前の肝要なり」という言葉がある。虎の口の前では常識は通用しない。虎の口の前で(欧米列強が日本に迫りくる危機のとき)、一般論を唱える普通の人ではこの危機を乗り越えられない。松陰や晋作のように狂うことができる無分別を持つ人間でなければ、乗り越えられないのである。

「命もいらず名もいらず官位や金もいらぬ」という西郷の「仕末に困る人」も、松陰が言う「狂者」である。西郷は「このような人は普段は馬鹿か利口か分らない。一般の人には奇人変人のように映り、その人が真に狂者であるかは見抜けない」と語る一方、松陰同様に国家の大事業にあたっては「仕末に困る人」と仕事すると言い切るのである。

「狂う」という概念は、動乱の幕末ならいざ知らず、平和な今日の日本では、ほとんどないであろう。しかしながら、私は狂うことは平和であっても大事だと思う。平時にあって乱を忘れずではないが、平和な時代ほど常識という美名のもとにさまざまな自己都合が形を変え現れる。また、種々さまざまな我欲が個人、団体、組織、国家といったそれぞれのレベルで増大し拡大し、争いの種を生み出ていく。真の平和を願い、また平和の継続を思うならば、西郷や松陰が主張する「人の行うべき正しい道」を、我欲とのバランスの上からも、人々の心に抱かせるべきではないだろうか。それは平時にこそなすべきである。

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