死生観を自得せよ
いつのころから人間社会に神や仏が存在するようになったのであろうか。世界にはキリスト教、仏教、イスラム教の三大宗教がある。そのほか、大小さまざまな宗教やそれに類するものが世界各国で息づき宗教的生活が行われている。アインシュタインは晩年、ある哲学者への手紙で宗教について「神という言葉は、私には人間の弱さの産物という以上の意味はない」「ユダヤ教は他の宗教同様、極めて子供じみた迷信の権化だ」と述べている。
人類が誕生して五百万年。長い期間、人類にとって死はほかの動物と同じく自然現象であった。人類が「死というもの」を意識するようになったのは四、五万年前の旧人から新人の時代と言われている。人は死を恐れ、死を避け、永遠の生を夢見て、死してもなお生き返ることを願う。死んだ後もどこかで生きているという安心を得ようとする。西郷の『手抄言志録』は百一項あるが、そのうちの四つは直接死に関する項目である。少し抜粋してみる。
「生物は皆死を畏る。人は其の霊なり。当に死を畏るるの中より、死を畏れざるの理を揀び出すべし。吾思う、我が身は天物なり。死
生の権は天に在り。当に順いて之を受くべし。我れの生るるや、自然にして生る。生るる時未だ嘗て喜ぶを知らざるなり。則ち我の死するや、応に亦自然にして死し、死する時未だ嘗て悲しむを知らざるべきなり。天之を生じて、天之を死せしむ。一に天に聴すのみ。吾れ何ぞ畏れむ。吾が性は則ち天なり。軀殻は則ち天を蔵するの室なり。精気の物と為るや、天此の室に寓せしめ、遊魂の変を為す、天此の室より離れしむ。死の後は則ち生の前、生の前は則ち死の後にして、而して吾が性の性たる所以の者は、恒に死生の外に在り。吾れ何ぞ焉れを畏れむ。夫れ昼夜は一理り、幽明も一理、始を原ねて終わりに反り、死生の説を知る。何ぞ其の易簡にして明白なるや。吾人当に此の理を以て自ら省みるべし」(二十項)
(生物は皆死を恐れる。人間は万物の霊長である。当然死を畏れる中にも、死を畏れない理由をえらび出して安住する必要があろう。自分は次のように考える。自分の身体は天の命を受けてこの世に生まれたもので、死生の権利は天にある。だから、従順に天の命令を受くべきものである。我々の生まれるのは自然であって、生まれた時に喜びを知らない。また、我々の死ぬのも自然なのだから、死ぬ時に悲しむことを知らないのがよいのだ。天が我々を生み、そして死なすのだから、死生は天に任すべきもので、畏れないでよいの。
我が本性は天が与えたものであり、この身体は天の与えた本性をしまっておく室である。
精気が凝って形あるものとなるや、天〈本性〉はこの室に寄寓し、魂が遊離し出すと、天はこの室より離れる。死ねば生まれ、生まれると死ぬものであって、本性の本性たる所以のものはつねに死生の外にあるのだから、自分は死を少しも畏れない。一体、昼夜には一つの道理があり、死生にも一つの道理がある。春をもって始めとして、これを原ぬれば、それ必ず冬がある。冬をもって終となしてこれに反ればそれ必ず春がある。死生はこれに類するものである。これほど、簡単でわかりやすいものはない。我々は、この道理をふまえて、自ら省みるべきだ)
「死を畏るるは、生後ごの情なり。軀殻有りて而かる後に情有り。死を畏れざるは生前の性なり。軀殻を離れて而して始めて是の性を見る。人須らく死を畏れざるの理を死を畏るるの中に自得すべし。性いに復るに庶からむ」(二十一項)
(死を畏れるのは、人が生まれた後に生ずる感情である。身体があって、その後にこの感情があるわけである。死を畏れないのは、生まれる前の本性である。身体を離れて、始めてこの本性を見る。人は死を畏れないという道理を、死を畏れる中、すなわち生後に自ら体得すべきである。かくしてこそ、生前の本性にかえるに近いといい得るだろう)
「聖人は死に安んじ、賢人は死を分とし、常人は死を畏る」(十五項)(聖人は生死を超越しているから、死に対して心が安らかである。賢人は生者必滅の理を知っているから、死を生きている者のつとめであると理解してあわてない。一般の人は、ただ死を畏
れて取り乱す) 十六項も死について触れているが、第一章十五頁ですでに紹介済みなので、ここでは掲載しない。
これらを見ると、いかに西郷が死と向きあって「人間の死というもの」を探究しようとしていたかが分かる。「人は須らく死を畏れざるの理を死を畏るるの中に自得すべし」とあるように、西郷自身も月照との入水自殺で自分独り生き、沖永良部島の野ざらし吹きさらしの囲い牢にとらわれるなど、数々の苦難を通じて「死を畏れざるの理」を自得しようとしていた。「聖人は死を安んず」「聖人は死生を視ることまさに昼夜の如し」という聖人の域まで西郷は自らの死生観を高めようとしている。西郷はその後自得した死生観をもって幕末動乱のなか薩軍を率い倒幕を果たし、明治国家を成立させた。それは見事な仕事ぶりに表れている。宗教や思想や時代の勢い、流れに洗脳されたり麻痺させられたりする死生観であってはならない。自身で得た死生観であらねばならない。
「死」とは人間にとって実に嫌な来訪者である。できるなら永遠に来てほしくない。また対応の準備が整っていないのに突然来訪するからやっかいである。しかしながら、死は万人に平等にだれ一人も逃すことなく確実に訪れる。そうであるならば、いつ訪れるか分からない死という来訪者が、いつ来訪してもよいように準備しておくことはできるはずである。
死という来訪者のことをあらかじめよく知っておき、突然の来訪にあわてたり、うろたえたりすることがないように常日ごろから心の準備と対応法を十分に練っておく。そして、なにより死というものが人間にとってどういう存在であるかを知っておかな
ければならない。「死生を視ること真に昼夜の如し」。なんと素晴らしい言葉ではないか。死生をこのように達観したいものである。