第三章 道義国家
2 国家の存在目的とは
いったい国家は何のために存在するのであろうか。存在しなければならないのであろうか。
人間は自由意志を持つだけに、ホッブスの言う「万人が万人に対する戦闘状態」にはなりたくない。自分の能力を生かした仕事をしながら、蓄積した成果を子孫に伝えることを望む。そのためには衣食住が満たされ子育てができる安心安全な生活を常の状態としなければならない。国家という枠が必要であった。しかし、住民の希求するものであったにもかかわらず、それを十分に果たしていると言える国家は現代でも多くはない。そういった意味では北朝鮮やシリアなどは国家の役目を果たしていないのである。それに比べて日本は良い国家であると言ってよい。役割をほぼ果たしている。
理想の国家観にして真の国家の目的は、天の思想にもとづく国家論であろう。西郷が沖永良部島で島役人土持政照に与えた「与人役大体」で述べている。万物の創造主である天という目で人間を見ている。それは領主や国王など為政者の視点ではない。
民主主義国家における単なる民衆や住民のような集団の視点でもない。人間という存在のあり方を天が俯瞰した国家論である。創造する力と自由意志を持つ人間は、まさしく創造主の分身であるとも言える。その人間は宇宙・大自然と調和して進化しなければならない。
天の意思は人間への仁愛であり、母が子を思う無償の情愛ともいえる。その意を体して人間が努力することで天の意に添おうとする思いが、天の思いであると西郷は述べている。この天意を住民に及ぼすための機関が国家であり、国家の存在目的もまたそこにあると西郷は説いている。世界中には様々な形態の国家が存在しているが、国家の真の存在目的がどこにあるかを住民一人ひとりが意識しなければ、たとえ民主主義国家であっても過去の専制国家の善政に劣るようになる。住民の意識以上の国家は望めないのである。
厳しい見方をすればどの国家も住民が望んだ結果として存在しているということだ。二十一世紀の現在においては西郷の国家論を持ち出すまでもなく、住民を安心かつ安全に生活させるために、国家という組織が存在していると言える。