第三章 道義国家
3 国家のための国民となっていないか
人類の歴史を振り返ると、国家が成立したときから、領土の争奪など抗争を重ね、国家はめまぐるしく興亡を繰り返している。住民はその興亡に振り回されなければならず、国家に付属するもののようになっていた。しかし、近代国家では住民が力をつけ意識を高めたことで、このようなことはなくなっている。
民主主義とは「権力を人民が行使するという考えとその政治形態」と広辞苑にある。さらに「近世に至って市民革命を起こした欧米諸国に勃興、基本的人権、自由権、平等権あるいは多数決原理、法治主義などがその主たる属性であり、また、その実現が要請される」と記されている。
権力を人民が行使するとなっているが、実際の国家運営は政治家と国民の一部である公務員によってなされている。国民は権力の行使を政治家という代議員に委ねている。国家は種々様々な組織で成り立っており、まるで巨大な生き物のように日々活動し変化している。その中にあって直接国家運営に携わる政治家や公務員はややもすると、国家のための国家運営に陥りやすくなる。これは、どこのどんな国家であっても大なり小なり起こりやすい現象と言える。あたかも国家という外形が意志を持ったかのようになり、住民の意志を無視して一人歩きした例は歴史上に何度もあった。
国民の意志が国家の意志であらねばならないはずであるが、現在でも国家の意志と称する意志(政府や一部の権力者の意志)に国民の意志が従っているのが実際ではないだろうか。民主主義は権力を人民が行使することであるが、このことも建前になっている。ほとんどの人民は自身の生活に手いっぱいであり、自分自身に権力があることを知らない。権力行使の努力もなさず、他人にその権力を預けっぱなしにする。これらは資本主義貨幣経済の中での民主主義の大きな欠陥であろう。