人間には人間の生きる目的がある
西郷は人間には人間の生きる道があると考える。家畜同然の生活を強いられた囲い牢の中にあって、西郷は起きている間は終始、姿勢を正して座し持参した書籍を開いているか、あるいは修行僧が思索を繰り返すように黙座静思していた。大自然と西郷を隔てているのは牢格子のみで、自然外界の刻々と移り行く中で自然の一部と化しているような西郷の姿であった。
後に西郷は『遺訓』の中で「是非天地を証拠にいたすべし」「即ち天地と同体なるものなり」と述べ、天地自然の営みを観察し、その中に人間のあり方や処し方を見つけるように説いている。風が吹き雨が降り、暑さと寒さ、繰り返す昼と夜。生成し千変万化する自然界。西郷は囲い牢の中に独り端座し、まさしく天と地の間に座し己の心と天地自然を観察していた。自然の中にあって、痛いとか、つらいとか、不平不満をどんなに大声で叫んでみても、大自然が応えてくれるわけもない。木(植物)は痛いとか辛いとかしゃべらない。
虫に食われようと人にノコギリで切られようとまわりの環境がどのように変化しようと、こうしてくれ、ああしてくれと求めることも、また勝手にその場から逃げだすこともできない。樹齢二百年の巨木も、二葉のうちに鳥についばまれる木も、天地自然まかせであ
る。やがてその巨木も枯れ土に返り、大自然の生成発展の循環の中に組みこまれていく。犬や牛、馬やそのほかの動物も与えられた本能のままであり、自然界の一部であり、自然と同化している。犬が己の心を隠したり、権謀術数を用いたりはしない。人間以外の動物はみな、大自然の中で裸であり、何も所有していない。生死も自然のなすがままであり、天地の間に何も隠すものがない。本当に自然そのものである。
しかし、人間は己の心の内や思いを隠そうとする。他人の心は目に見えない、読めないと思って、人間は自己中心になりわがまま身勝手になる。自己愛と我欲のため、怒りや憎しみといったさまざまな感情を持つようになる。西郷は厳然とした自然と向き合うとき、こういった人間のもつ感情や思いなど大自然の前では何の意味もなさないことを見抜いていた。それは単なる人間の独りよがり
でしかなく、また小さな人間が心の内を隠したり権謀術数を使ったりしても、宏大な自然や宇宙に比べたら隠すも隠さないもないのである。
西郷は暗闇の中で座禅を組んでいる。波の音を聞き風の音を聞いている。ときに夜空を見あげれば満天の星である。南国の降るような星と壮大な宇宙。「えいっ!」と全身に気をみなぎらせると、西郷の血を吸えるだけ吸って腹をふくらまし重くなった無数の蚊がポタポタと落ちてくる。西郷は身じろぎもせず今いちど気を入れ、この不可解な人間という動物の生きる目的とは何か、人の道とは何かを感得しようとする。しばらくすると西郷の輪郭は闇の大気の中に溶け出していき、ついには体そのものも西郷の意識だけ残して暗闇の大気と同化してしまうのである。西郷は大自然にさらされ、このような修業を繰り返していた。