西郷党BLOG

道を行う者 西郷吉之助 p036 第四章-04

一箇の大丈夫西郷吉之助

道を行うということ

『遺訓』の中には西郷の素顔が見える。読めば読むほど西郷という男が分かるようになり、西郷の言わんとするところが分かってくる。二〇〇九年は西郷隆盛の生誕百八十二年・没後百三十二年。あることがきっかけとなり、九月二十四日に南洲神社例大祭に参加した。九月二十四日は西郷の命日である。勝海舟は西郷を政治家というより高士とみた。大隅重信はただ情の人とみた。西郷をどうとらえるかは人によってさまざまで、史家の間でも評価はまちまちである。没後百三十二年たった現在でもなお、漠然としていて実像がなかなか見えない。

西郷が大久保や木戸や岩倉そして伊藤、山県といった明治になって功成り名を遂げた維新の元勲とはっきりと違っているものがある。それは生きる目的だ。『遺訓』にそれが如実に表れている。西郷の生きる目的とは道を行うことであり、道を行う者として生きることである。道とは、人として正しく生きるための生き方である。人間とほかの動物が根本的に違う。動物は本能で生きるが、人間は「生き方」を持って生きている。人類は長い年月をかけて人としてよりよく生きるための、正しく生きるための生き方を模索し探究してきた。人間がほかの動物同様に本能のみで生きていたら、現在のような進化と発展はなかったであろう。

人類は争いや戦争を絶えず繰り返しながらも、今日の繁栄を築いてきた。人類の進化と繁栄のために、より正しい生き方は何か。試行錯誤を繰り返し長い年月をかけて人間のDNAに組み込まれるまでに追求し、ある程度の形としてでき上がったのが、人としての「正しい生き方」=「道」である。道は、人類が存在している以上、千年であろうと一万年であろうと変わることなく受け継がれていく最重要なものである。人間の子供として生まれ、人としての教育を受け成長していく。成長する過程でこの形を学び、そしてさまざまな人生経験を経てこの形を身につけ、本物の形として言行に表す。本来なら人間はみな、この基本の形を学び習得し完成させることが、生きる目的である。そして、この基本の形の上に、人それぞれの志や思いや人生目的、目標を置く。こうでなければならないと西郷は考える。

『遺訓』の中で西郷が「道とは」「道に志す者」「道を行う者」などと使われる「道」とは、人間が何百万年という進化の過程で見いだし形づくってきた「正しい生き方」である。何が正しくて何が正しくないのか。判断基準はどこにあって誰が決めるのかと思うかもしれない。それを心配する必要はない。すでに人としてなすべき正しいことか否かは、瞬時で判断できるようDNAに組み込まれているのである。この機能をデカルト(仏の哲学者)は「良心(ボンサンス)」と呼ぶ。人間には誰にでも与えられている「これは正しい、これは悪い」という直感のひらめきである。

しかし、この直感に素直に従うことは誰でもできるものではない。実際は困難なことである。また、使わなければ退化していく特性も持っている。生きていくうちに人はさまざまな我欲に支配されるようになり、この直感を麻痺させてしまう。西郷が言う「道を行う」とは、「正しい生き方」を学び、日々の生活の中で実践することである。それは剣道や柔道にいろいろな技の形があるように、人生のさまざまな場面における正しい形を学ぶことから始めなければならない。そして、剣道や柔道の練習のように、この形を人生の中で練習し上達させ、いつでも実践できるように自分自身を高めなければならないのである。

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