克己
「己に克て」。これが『遺訓』全五十三項目を通して西郷が一番言いたいことである。
「己に克つ」ことを意識したなら、人間は死ぬまで我欲と戦い続けなければならない運命にある。人間という生命体の根幹にある生存欲に直結している我欲は、非常に強敵である。この欲は多種多様、大小さまざまで、その時々で瞬時に強くなったり、
何年も時間をかけて少しずつ強大になったりと、実に変幻自在でとらえがたい。また人の正義や大義といった正統性とも結びつきやすく、一見しただけではそれが純正なものかどうかは見分けがつかない。我欲に敗れ、なすがままに放置しておくと、自身は我欲に支配されその奴隷となってしまう。
人間の顔貌をしてはいるが、その中身は我欲に支配された奴隷になってしまっている人間が多いのも事実である。この我欲は一般の人ばかりでなく歴史上の人物であっても、功成り名を遂げた人でも権力者や指導者でも区別することなく、知らず知らずのうちに支配してしまう油断のならない恐ろしい敵である。歴史に登場する多くの権力者や指導者を見ても、この我欲に支配されるかとらわれていたと思われる人物は数多い。現代でもそれは同じで、汚職、女性問題、権力の乱用などが発覚し、明らかに我欲に支配されていると思われる各国の首脳は挙げたらきりがない。西郷は言う。「総じて人は己れに克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るるぞ。能く古今の人物を見よ。事業を創起する人其事大抵十に七八迄は能く成し得れ共、残り二つを終る迄成し得る人の希れなるは、始は能く己れを慎み事をも敬する故、功も立ち名顕るるに随ひ、いつしか自ら愛する心起り、恐懼戒慎の意弛ゆるみ、驕矜の気漸ようやく長じ、其成し得たる事業を負たのみ、苟も我が事を仕遂げんとてまづき仕事に陥り、終に敗るるものにて、皆自ら招く也。故に己れに克ちて、睹ず聞かざる所に戒慎するもの也」。
(すべて人間は己に克つことによって成功し、己を愛することによって失敗するものだ。よく昔からの歴史上の人物をみるがよい。事業をはじめる人が、その事業の七、八割まではたいていよくできるが、残りの二、三割を終わりまで成しとげる人の少ないのは、はじめはよく己をつつしんで事を慎重にするから成長もし、名も現れてくる。ところが、成功して有名になるに従っていつのまにか自分を愛する心がおこり、畏つつしむという精神がゆるんで、おごりたかぶる気分が多くなり、そのなし得た仕事をたのんで何でもできるという過信のもとにまずい仕事をするようになり、ついに失敗するものである。これらはすべて自分が招いた結果である。だから、常に自分にうち克って、人が見ていないときも聞いていないときも自分をつつしみいましめることが大事なことだ)
一般に人の多くは「克己」を軽く考えており、人として生きるうえでいかに重要であるのか、その重要性に気づいていない。西郷が「道を行う」者や「道義」を口にするとき、「道を行う者は事の成否や身の死生などに少しも関係せぬ」と説き、「道義においては一身を顧みず必ず行うこと」と唱える。これらの厳しい言葉を聞くと、多くの人は大袈裟過ぎると思うであろう。しかし、決してそうではない。そのように思う人は「道義」や「道を行う」ことを表面で軽くとらえていて、言葉の意味だけを知るのみで、真の意味とそれに伴う行動を知らないのである。また知ろうとしないのである。
西郷は命を懸けるほどの覚悟がなければ、これらの言葉は文字どおりの意味で身につかないことを修業と実践で知っている。「義を見てせざるは勇無きなり」という言葉がある。勇というときには死に直結するかもしれない行動がなければ、義(正しい道)は行えないし、それは単なる文字の「義」である。アドルフ・ヒットラーを例にしよう。戦前ドイツはヒットラーに支配された。そのヒットラー自身は我欲に支配され、我欲の奴隷であったかもしれない。ヒットラーの独裁でドイツの道義は地に落ちていた。洋の東西を問わず、道義は人類普遍のものと西郷は考える。これをなくしてはならない。
しかしながら、ドイツではヒットラーの暴政を許し、なすがままでヒットラーを排除することも暗殺することもできなかった。その代償として何百万人もの犠牲を払った。西郷がいたらヒットラーの独裁は絶対に許さなかったはずである。人間誰でも死にたくない、命は惜しい。身内に危害を及ぼしたくない。平穏無事であればそれでよいと考えている。そして、多くの人は日常の生活の中では、「道義」や「道を行う」ことや「己に克つ」ことはほとんど意識しない。本当はそうであってはならない。普段の生活の中にあって、また日々の出来事においてこれらのことを実際に行う訓練をしていなければ、為政者の独裁による暴政、悪政、社会の不正義に対して何もなすことはできず、またこれを正すこともできないのである。西郷のいう大丈夫とは、日常無事の生活の中にあってもこれらを実践し、また日々これらを訓練修業している人間である。
日々の出来事において「己に克つ」ことは自分自身(個)を強くすることになる。我欲は誰にでもあることを知り、それをよく知れば知るほど強敵であることが分かる。また勝てば勝つほど、勝ち続ければ勝ち続けるほど、人間は聡明になり英知を知り人間の本質が分かり、宇宙の法則も理解するようになる。西郷が見抜いているように「己に克つ」ことを完全に行うことは、歴史上の聖賢・英雄・豪傑でも難しいのである。長い人生ではどこかで我欲と妥協し戦うことを放棄してしまう。妥協とは聞こえがよいが、人間のDNAからすれば、その時点からその人の進化が停滞し、そこから後退、廃退へと向かうのである。政治でいえば自身の地位や権力や名誉を守るという我欲に専念し、打つ手はいかにも暫新や改革に見えるが、根底で進化が停止しているため、結果は悪手となってしまう。西郷は歴史上の人物を観察して「己に克つ」ことが人間にとっていかに困難であるかを指摘する。世界の三大聖人の一人である孔子でも、我欲に完全に克つことができたのは七十歳になってからと述べている。
七十歳になって自分の中にあるすべての我欲を好き勝手に自由にさせたが、どれ一つとして人の道や道徳に反しなかった。我欲と戦い続けた結果として、すべての我欲が孔子の意識下で自動制御され、その意識によってコントロールされたのである。それが「我れ七十にして、心の欲するところに従えども、矩を踰えず」という孔子の言葉である。西郷は歴史上の人物を功績やその事業で評価するのではなく、「己に克つ」という視点で評価する。その人物の正味の力量を測るのである。それゆえ西郷は多くの人が惑わされる功績や事業といったものに惑わされない真眼で人間を見ていた。西郷のように「己に克つ」ことを基準にいろいろな人間を観察する。同様に「道義」を基準にどれほどの人間かを分析してみる。そうすれば今までは権力を持ち、地位があり、大事業を成し、名誉、栄誉があり、お金と資産があって立派で偉く見えた人々も案外そうではなく、我々と大差のない人間に思えてくる。
「己に克つ」ことは人間にとって非常に重要である。ほかの動物と人間が明らかに違っているのは、本能の延長でもある我欲に対し人間はそれに逆らうことや反する行為ができることだ。人間を動物から切り離し人として成長させ、そして人間を進化させる最大の機能ともいえる。ほかの動物はすべてが本能であり、それに逆らうことはない。しかしながら、孔子の例をみても分かるように「己に克つ」ことは人間にとって生涯を通して戦い続けなければならない宿命のようなものである。同時に、人間はこの戦に勝つことなくしては人間としての成長は望めない。それほど人間にとって重要な戦いであり、「己に克つ」ことを意識し、我欲の強大さを認識し日々この大敵との戦いに臨まなければならないのである。
西郷はこの我欲との戦い方とその必要性について『遺訓』で次のように述べている。「己れに克つに、事々物々時に臨みて克つ様にては克ち得られぬなり。兼て気象を以て克ち居れよと也」(『遺訓』二十二項)この言葉が西郷の口から出るということは、西郷がいかに若いときから「己れに克つ」ことに苦心し戦い続けていたかを物語っている。まるで宮本武蔵の『五輪書』にある兵法の心構えのようである。己に克つことは生易しいものでない。まして克ち続けることは至難である。その時々に現れる我欲に克てばよいなどと簡単に考えてはならない。
我欲には必ず克つという強い気構え、気魄で当たり、日々の日常において克ち続けることが肝要である。「克己」を意識する人でも、この我欲には勝つが、この我欲には負けてもよいなど自己都合で勝ったり負けたりを許す人もいる。このような人は多いが、我欲をあなどり過ぎており、長い人生においては結局、我欲に支配されて偽善の自己満足で終わってしまう。孔子にして七十年という年月をかけ我欲という大敵に完勝できたのである。普通人であるわれわれが勝ったり負けたりなど甘い考えであっては偽善家の山をつくるばか
りである。「兼て気象を以て克ち居れよ」という西郷の思いを真に受けとめ、孔子のごとく生涯を懸けて己の内にある我欲という大敵を打ち負かし真の自由を得よ、そして進化した人間となれ。西郷が訴えたいことである。