西郷のように強く大きい人間になるにはどうしたらよいか
方法は簡単である。強く大きい胆力のある者をモデルとしてまねをすればよい。西郷は「どうせモデルにするなら歴史上の英雄をモデルとせよ」と説く。目指す目標は高い方がよい。次の「剛胆なる処を学ばんと欲せば」で始まる西郷の言葉は、目指す人間になるための練習方法を述べている。西郷は、人間こそ理想の人間に向って進化し、発展しなければならないと考えている。一人ひとりの人間はもっと自己を成長させ、個を強くするべきであるという。
「剛胆なる処を学ばんと欲せば、先づ英雄の為す処の跡を観察し、且つ事業を翫味し、必ず身を以って其事に処し、安心の地を得べ、然らざれば、只英雄の資のみあって、為す所を知らざれば、真の英雄と云ふべからず。是故に英雄の其事に処する時、如何なる胆略かある、又われの事に処するところ、如何なる胆力あると試較し、其及ばざるもの足らざる処を研究励精すべし。思ひ設けざる事に当り、一点動揺せず、安然として其事を断ずるところにおいて、平日やしなう処の胆力を長ずべし、常に夢寐の間において我胆を探討すべきなり。夢は念ひの発動する処なれば、聖人も深く心を用ふるなり。周公の徳を慕ふ一念旦暮止まず、夢に発する程に厚からんことを希ふなるべし。夢寐の中、我の胆動揺せざれば、必驚懼の夢を発すべからず。是を以って試み且つ明むべし」(『遺訓』補遺2項)
本当に強く大きな胆力(剛胆といえるほどの胆力)を習得しようと思うならば、歴史に登場する古今の英雄の行動や事跡・業績を伝記評伝などで学んで観察することである。そして、一人の人間(英雄)の行動パターンや考え方を十分に把握しなければならない。そうすることで英雄が歴史上の場面、場面で起こす行動が何を目的としているのか、そのとき英雄の覚悟・胆力がどのようなものであったか分かってくる。次は、自分が英雄と同じ立場であったとして、同様の覚悟胆力で行動することができるか比較してみる。そうすると、自分と英雄とを比べてみて、自身の及ばないところ足りないところがはっきり分かってくる。
そして、西郷の言葉で言えば「其の及ばざるもの足ざる処を研究励精すべし」となる。たとえば、英雄・織田信長の剛胆さを学ぶことにする。信長二十七歳のとき、桶狭間の戦いの場面である。今川義元の二万五千の大軍が尾張の国境に迫っている。信長が動員できる兵は、十分の一、わずか二千五百である。客観的に見て全く勝ち目はない。重臣は皆一様に籠城抗戦を主張する。信長は出撃決戦を決意するが、家臣には籠城とも出撃とも明言しない。時を見て、信長は義元の本隊を攻撃するため出陣する。途中自分の丸根、鷲津の二つの出城が敵に落ちる悲報に接する。それをも顧みず、義元本隊がいる桶狭間山に突き進んでいく。あなたは信長のこの一連の行動を自分自身に置き換えてできるかできないか、自身で検証しなければならない。果たして本当に信長の行動が取れるか否か、心を無にして自身に問うのである。
重臣全員が反対する中、国の存亡を賭し十倍の兵力に対処しなければならない。勝敗を忘れ自暴自棄で出撃するのではない。勝ちを制さなければならない。すでに今川軍は尾張領を侵している。時はない。息も詰まるような緊迫感の中、次から次へと決断しなければならない。あなたに信長の決断判断ができるだろうか。それを検証するのである。できるところ、できないところが分かり、そして、どの程度できて、どの程度できないかも分かるであろう。
あとは修業してできるようにするだけである。そうして初めて英雄信長の豪胆を学んだことになる。それが安心の地を得るということなのである」と西郷は述べる。実際は戦国時代にタイムスリップして行けるのではないから、信長と同じ場面での判断決断はできない。しかし、あなたが本当に英雄の剛胆を学ぼうとするのであれば現実の社会においても、信長が出会った場面と似たような場面は自ら望めば至るところにいくらでもある。なぜなら戦国の当時、信長自身望んだがゆえの場面であり局面であった。重臣の言うとおり籠城にしてもよかったのである。
ここで多くの人は「織田信長は歴史上の人物だ。天才である。われわれ普通の人間に英雄のまねができるはずがない」と言い訳をして実行しようとは思わない。それでは「只英雄の資のみあって、為す所を知らざれば、真の英雄と云ふべからず」となる。歴史事実を詳しく知っている物知りや教養・知識人にすぎず、「剛胆」の真の意味も行動も味わいも本当に知ることができない。西郷は「修業により自分の胆力がついているか否かは夢に現れるから、見た夢で確認せよ」と述べている。私も若いとき、西郷のこの訓練方法を練習していたので、人に追われたり、びくついたり、恐怖の夢を見たりすると「私の胆力はまだまだ練れていない」と目が覚めて悔しがったものである。「我の胆動揺せざれば、必ず驚懼の夢を発すべからす」という西郷の主張はまさに真実である。普段から自分の胆力を強く大きくする訓練をしておけば、恐い夢など見るはずがない。
「夢は念ひの発動する処なれば、聖人も深く心を用ふるなり。周公(周の文王の子で孔子の理想とした聖人)の徳を慕ふ一念旦暮止まず、夢に発する程に厚からんことを希ふなるべし」という言葉もある。西郷自身、剛胆なところを学ぼうと、夢に現れるほど強く思ったのである。思いがけない事態が発生しても、まったく動揺することなく落ち着いて対処することができるのは、普段からあらゆる事態に対応できるよう常に胆力を練って増大させているからだ。「思ひ設けざる事に当り、一点動揺せず、安然として其事を断ずると
ころにおいて、平日やしなふ処の胆力を長ずべし」とは西郷の味わい深い言葉である。多くの人はピアノやバイオリンを習ったり、ゴルフ、サッカー、野球といったスポーツに熱中したりする。少しでも練習して上達しようと願う。しかし、ゴルフの腕は上げたいとは願っても、ちょっとやそっとではびくともしない胆力や何をも恐れない勇気を持つ「練習」をして「上達」しようとは思わない。
西郷という男は「人間そのもの」を「練習」して「上達」しようとした。「人間そのもの」とは人の生きる目的や勇気や理性のように、人として生きて行く上で必要な根幹をなすものである。習いごとや技能・スポーツといった自分の趣味や興味あるいは親や他人からの勧めで始めた、いわば枝葉のように人に後から付随してくるものではない。西郷は、人間の幹すなわち「人間そのもの」を強く大きく、そして高く成長させるため、ピアノやゴルフを上達しようと練習するように、「人間そのもの」のレベルを高くする「練習」をしたのである。