道義
「道義においては一身を顧みず、必ず踏み行うべき事」は、西郷が書いた私学校綱領の一文である。「一身を顧みず」は最初の草稿のとき、「敢て生死を忘れ」となっていた。それではあまりにも言葉が厳しすぎると、「一身を顧みず」と少し柔らかくしたのであろう。一般に理念や綱領といったもので、国家や社会組織において人間・人類の思想のあり方を表そうとするとき、その文は格調高く、普遍性を求め理想を追求し、文言は強い言葉や決意や断定を含むものとなってくる。次は日本国憲法序文の後段である。
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視しては
ならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」
道義とは人間が行うべき正しい道である。日本国憲法にある「人間相互の関係を支配する崇高な理想」もまた道義にほかならない。西郷が書いた「道義においては一身を顧みず」と、憲法の序文の「日本国民は国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」を比べても、理想追求の言葉として大差はないといえる。また、序文にある「人間相互の関係を支配する崇高な理想」は、どういう理想なのかが見えにくく具体性に欠いている。むしろ道義の方が明確な言葉として意味を想像し理解しやすいのである。
どうして西郷は道義を重んじるのであろうか。実際には国家や個人間では、この序文にある「平和、公正、信義」と反対のことが起こりやすい。専制と隷従、圧迫と偏狭は雑草のごとくはびこりやすく、人は恐怖と欠乏に見舞われやすい。人類の宿命ではないかとさえ思える。現代でも戦争や紛争は継続中であり、これらのことは人間がつくった国家では当然のことであるかのように日常的である。
果たして憲法の序文にある「人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する」とはどういうことなのであろうか。人間一人ひとりがパソコンであれば、「人間相互の関係を支配する崇高な理想」という基本ソフトを入れて簡単に実現できるが、人はそうはいかない。深く自覚させるためには教育や社会環境が必要である。
普段の社会生活の中で実践されていなければ、絵に描いた餅となる。道義とは口で言うものではなく一人ひとりが実行するべきものである。そうでなければ何の意味もなく何の役にも立たない。それゆえに西郷は「必ず踏み行うべきこと」、実行すべきことを強調している。憲法の序文も「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」と強い言葉で結んでいる。
しかし、実行することは容易ではない。人間は簡単に天使にも悪魔にもなる動物である。序文にある「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり」のうち、自国を己(各個人)に、他国を他人に置き換えると分かる。我欲が強く自己愛に凝り固まり他人の不幸はいくらでも無視できる、多くの人間には、序文のような理想を実践できるはずがない。人類の歴史を見ても、また現在の世界を見ても、そのことは一目瞭然である。自国の利益を最優先し戦争も辞さないとする国際間では、政治道徳の法則などないに等しい。そもそも人類はいまだかつて政治道徳を見つけたことがない。
この憲法を草案した者は西郷のように牢屋につながれた経験があるわけでもなく、人生の辛酸を経て道を行った「人間道の達人」ではない。普通の人である。「人間相互の関係を支配する崇高な理想」とは何か草案した人自体、それがどういうものか体験し得ずに、ただ言葉で表現しているに過ぎない。世界のどの国家も一人ひとりの人間(個人)の集合体である。それが一億人いたら人口一億人の国家となる。その中はすべて人間相互の関係である。人類の誕生以来、地球上では人間相互の関係が何百万年と何十万年と続いている。それは自己を中心とし親、兄弟、他人とさまざまな関係を形づくっていく。その中にあって「人間相互の関係を支配する崇高な理想」は、西郷が唱える人の道であり、道義である。それは、動物ではなく人として生きていく上で、人間相互の関係の根本に置かなければならない絶対の法則である。
人間がこの法則を学び従うことは、自由意志を持ちものを創造する力を持つ人間が大自然や宇宙の法則にも添い従うことである。そう西郷は考える。しかしながら、この法則は人間に先天的に備わっているものではなく、生まれ成長していく過程で一人ひとりが学び身につけていかなければならないものである。この法則は、国や社会集団では廃れやすく、個人においては油断すると消えてなくなってしまう。だからこそ、西郷が「道を行う」と言うように、常に実践行動する必要がある。時には己の一命を賭してでも示さなければならないのである。西郷が私学校綱領を草稿の段階では「道義においては、敢て生死を忘れ必ず踏み行うべき事」としたのは、道義とはそのぐらいの覚悟を持たなければ真に身につかないと主張したかったのであろう。日本国憲法では、国家の名誉をかけ全力をあげて、この崇高な理想を達成すべしと国民に告げている。