第一章 西郷隆盛
3 国家の大業を成す者
一八六三(文久三)年六月の薩英戦争から、一八六八(慶応四)年三月に西郷と勝海舟の会談で江戸城が無血開城されるまでの間は、まさしく日本史上最大の激動期だった。次はこの間の主な出来事である。一八六四(元治元)年七月十八日の蛤御門の変(当時は甲子戦争とよばれ戦争であった)、同年八月五日の四国連合艦隊下関砲撃事件、同年七月二十四日から一八六六(慶応二)年九月までの幕長戦争(幕府による第一次・第二次の長州藩征討)、一八六七(慶応三)年十月の大政奉還、一八六八(慶応四)年一月三日に鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争であった。日本は一八五四(嘉永七)年、ペリーの砲艦外交で開国させられると、和親条約と修好通商条約の不平等条約をアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアと締結した。
この環境の中で最優先すべきは日本を欧米列強に対峙できる国家にいち早くすることである。次に優先すべきは、外国の力を借りず、日本国の問題は日本人の手で解決することである。西郷は日本の行く末を案じて、この二つを最大の基本方針に置き時代に臨んでい
る。幕府がこの任に値しなければ、すみやかに代わりの新政府を設立し、諸外国に対応する方針である。重要なのは「いち早く」諸外国にあなどられない政府を樹立すること。内戦を長びかせたら、双方疲弊し欧米列強の干渉を許し植民地化されないとも限らない。第一次長州征討のときも、征長総督府参謀西郷は「いち早く」軽い処分で終結させた。またこの処分理由を書簡などで述べ関係者諸氏の間で認識の統一を図っている。時代の難局に対応するとき、西郷が自身に課した基本方針は「無私で事に当る」ことであった。この日本の困難に直面して西郷はどういう人格・姿勢であったか記してみる。西郷は明確に「道を行う者」として幕末動乱激動の時代に立っていることが次の『西郷南洲遺訓』三十三項に表れている。
「平日道を踏まざる人は、事に臨みて狼狽し、処分の出来きぬもの也。譬えば近隣に出火有らんに、平生処分有る者は動揺せずして取
仕抹も能く出来きるなり。平日処分無なき者は、唯狼狽して、なかなか取仕抹どころには之れ無きぞ。夫れも同じにて、平生道を踏み居る者に非れば、事に臨みて策は出来きぬもの也なり。予先年出陣の日、兵士に向い、我が備えの整不整を唯味方の目を以て見ず、敵
の心に成りて一つ衝て見よ、夫れは第一の備ぞと申せしとぞ。
(【訳】かねて道義をふみ行わない人は、ある事がらに出会うと、あわてふためき、どうしてよいかわからぬものである。たとえば、近所に火事があった場合、かねてそういう時の心構えのできている人は少しも心を動揺させることなく、てきぱきとこれに対処することができる。しかし、かねてそういう構えのできていない人は、ただあわてふためき、とてもこれに対処するどころの騒ぎではない。それと同じことで、かねて道義をふみ行っている人でなければ、ある事がらに出会ったとき、りっぱな対策はできない。自分が先年戦いに出たある日のこと、兵士に向かって自分たちの防備が十分であるかどうか、ただ味方の目ばかりで見ないで、敵の心になってひとつ突いて見よ、それこそ第一の防備であると説いて聞かせたと言われた)」
道を行う者は普段から「道を行う」ことを実施している。日々の生活の中で起こる大小さまざまな出来事に対し、道に照らして考え判断し行動に移さなければならない。なぜ西郷が「平生道を踏み居る者」を強張しているのか説明が必要であろう。道(道義=人が行うべき正しい道)というのは、人として心のどこかに等しく持っているDNAのようなものであるが、これを現実の生活の中で発露させなければならない。しかしながら人間の生命維持の本能と我欲という巨大な欲の前では発露しにくいのが現実だ。
われわれが「道を行う」とすれば、まず、「道を行う」とはどういう行為なのか具体的事例が必要であろう。西郷は言う。「具体例を知るために、古今の人物(英雄・豪傑)や哲学、思想を勉強研究して、『こういう行為が道義なのか』『これが正しい人の道なのか』と自ら感じ得ることから始めることだ。そして次は道の事例がある程度わかったならこれを日常の現実の中で実践することである。初めは出来なかったり、出来たりが多いが、忍耐強く修業すれば少しずつ出来るようになる。そして人間力が次第に増してくるのがわかる。それが平生道を踏み居る者の姿だ」と。それではなぜ道を行う者でなければならないのか。「真に道を行うとすれば勇気や知識や仁愛を養っておかなければ、正しい判断や行為をしなければならない時に正しい判断や行為が出来なくなる。それゆえ日々、勇・知・仁を増大させる訓練修業を積んでおくことで、はじめて必要な時に道を行うことができる」と西郷は考えている。
実際に、日々の生活の中で道を実践することは簡単ではない。非常に難しい。命を捨てなければならない場合もある。他者から非難や中傷を受け、名誉や利益を失うこともある。西郷は「道を行う者はもとより困難に会うものである」と述べている。道を志した以上、人生において困難はつきものである。あらゆる困難という困難を乗り越え、さまざまな経験を積んでこそ人間力が増大し、正しく道を行うことができる。それはあたかも名外科医が自信を持って手術するかのように、道を行うものは人生の練達者として物事に対処することができると西郷は言いたいのである。西郷が重大局面においてとった姿勢が次の『遺訓』三十項である。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ」という大業を成す者の姿勢や資質を述べている。「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。去れ共、个様の人は、凡俗の眼には見得えられぬぞと申さるるに付、孟子に、『天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行う、志を得れば民之に由り、志を得ざれば独り其道を行う、富貴も淫すること能はず、貧賤も移すこと能はず、威武ぶも屈すること能はず』と云ひしは、今仰せられし如きの人物にやと問ひしかば、いかにも其の通り。道に立ちたる人ならでは彼の気象は出ぬ也。
(【訳】命もいらぬ、名もいらぬ、官位もいらぬ、金もいらぬというような人は処理に困るものである。このような手に負えない大ばか者でなければ困難をいっしょにわかちあい、国家の大きな仕事を大成することはできない。しかしながら、このような人は一般の人の眼では見ぬくことができぬと言われるので、それでは孟子(古い中国の書)の中にもあるように「天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行う。志を得れば民と之に由り、志を得ざれば独り其道を行う。富貴も淫することも能わず、貧賎も移すこと能わず、威武も屈すること能わず」
(註 人は天下の広々としたところにおり、天下の正しい位置に立って天下の正しい道を行うものだ。もし、志を得て上げ用いられたら一般国民とともにその道を行い、もし志を得ないで用いられないときは、独りで道を行えばよい。そういう人はどんな富や身分もこれをけがすことはできないし、貧しくいやしいこともこれによって心のくじけることはない。また威武(勢力の強いこと)をもって、これを屈服させようとしても決してそれはできない)と言ってあるのは今、仰せられたような人物(真の男子)のことですかとたずねたら、いかにもそのとおりで、真に道を行う人でなければそのような精神は得難いことだと答えられた)」
親がわが子の災難を必死で取り除こうとする思い。これが日本の困難に当たる西郷の思いに似ている。余計なことは何も望まない。列強による外圧の中で、いかに日本を諸外国に対峙できる国家にするかだけを考える。見返りを求めない。命も名も官位も金もいらぬという無私でなければ、ひたすら全力を尽くして救国の仕事を果たすことはできない。また無私だからこそスムーズであり、いち早く事を成すことが出来るのである。