第五章 四海同胞
6 人には人が行うべき道がある
人間は自由意志を持っているので、体と心を自由自在に動かすことができる。他の動物を本能というレールの上を走る電車にたとえるなら、人間は自動車である。食物という燃料さえ入れたら自由にどこにでも行け、心という運転手の気の赴くままに走らせられる。フランスの哲学者パスカルは著書『パンセ』において、人間の存在を「考える葦」ととらえ思考の偉大さを説いている。
人間の心が単に自動車を自由に走らせるだけの存在であったら、それは本能というレールが多方面に、そして平面上に広がっただけのことになり、他の動物と大差はなくなる。自由意志とは本能から独立して思考することで生じる意志である。
しかし心という自由意志に、走る目的も与えず、行き先も明示しなければ、気分まかせの動きになってしまう。気分まかせの動きは思考しないため、やがて固定化し単純化して動きの一つひとつが習慣化していくことになる。思考することによって本能から独立し自由意志を持つ心は、目的や目標がなければ次第に習慣に支配されるようになる。そしてついには自由意志という心が習慣の奴隷となってしまうのである。
人の日常の行動も生きる目的や目標がなければ、習慣によって動かされていることが多くなる。生活のさまざまな場面で習慣化している行動をチェックしてみると、意外に多いことが分かるのである。人々は衣食住の安定とさらなる充実を求めて日々の活動をしている。また現代社会のように生活環境の利便さを求めて多種多様な物質が生活の中に溢れるようになると、人はますます利便性を求めるため心の中の自由意志は少なくなる。そこに我欲に基づく習慣が入り込み、人の心をさまざまな習慣が支配するようになる。
人間には生きる目的や正しい生き方が根源的に備わっているはずである。このことを意識しなければならない。人間は何のために生きるのであろうか。他の動物のように生きるためと子育てのためだけであろうか。それだけなら本能に支配される動物と変わらない。人間の進化の積み重ねは何を目的としたものであったのか。単に偶然が重なっただけではないはずである。
二十一世紀の今日、人の生きる目的や正しい生き方が、創造主や天といった仮定をもとにして導き出されるものでなく、現在の人類自身の手によって生み出すときではないだろうか。人間の意識の中に一つの概念として存在させるべきではないだろうか。自由意志と創造する力を持つ人間に千差万別の生き方があるのは当然である。
人々は豊かさを求め、そしてさらなる物質文明の恩恵を得ようとする。資本主義・自由主義貨幣経済は新たな市場を開拓せざるを得ず、世界の未開の地まで同質の物質文明を及ぼそうとしている。それに伴うエネルギー資源の需要は計り知れず、国家は確保を強いられる。国際情勢はエネルギー資源をめぐる争奪戦の様相を呈している。
人々の価値観は少しでも貨幣を多く得て豊かになることに集中し、人の生きる目的や正しい生き方は後まわしにされ、意識することさえほとんどないのである。それではエゴを増大させるばかりであって紛争や戦争が絶えない状況は必然となる。
地球人類は世界経済の中にあってすでに共通の価値観を持てる環境にある。「欲を少なくする」で触れた西郷の逸話のように、紛争や戦争の根本原因である「欲の根拠するところ」を絶つ、それができる人類の哲学が必要である。宗教や各種の思想の上位にあって人間の根本に属する、正しい生き方や生きる目的である。それを一つの人類共通の概念として生み出すべき時代に来ている。そして「一つの美味あれば家族皆で分けあう」という譲り合いの精神を持ち、共生への道を人類は歩むべきである。
道義国家になりこの精神を世界に及ぼすことは日本の使命ではないだろうか。西郷は人には人が行うべき道があるとしている。それは、人が人であるための根本にある道徳であり、人として存在する以上変えられない絶対のものである。そして人がこの道を行うことは宇宙・大自然の法則に添うことであり、人の生きる目的でもあると、西郷は考えている。
多くの人が西郷の「道は天地自然の物にして、人は之れを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」という意識を普段から抱けば、それが四海兄弟、四海同胞となるのである。