西郷党BLOG

仕末に困る人 西郷吉之助 2p003-第一章_01

仕末に困る人西郷吉之助

第一章 仕末に困る人

西郷の本名は隆盛ではなく隆永だった

西郷の名前は隆盛として知られているが、それは明治になってからの名前である。

大久保一蔵が利通と、桂小五郎が木戸孝允と改まったように、吉之助が隆盛と改まったのである。西郷の改名のときのエピソードがある。明治政府から維新王政復古の尽力を評価され、正三位の位階を授けられたとき、実際の本名は隆永であったが、担当官の手違いで書面には実父の名前である隆盛と記されていた。それを見た西郷は「まあ、いいか」といった具合に別段担当官をとがめて改めさせることもなかったので、以降西郷隆盛が正式名称となった。

普通であれば名前の変更は権利関係の名義にかかわる重大事であるので、改めさせ責任を追及するはずであろう。西郷の事跡を見ていると、自分自身が責任をとればよいこと、自身が我慢すれば済むこと、自分自身で解決できるなど己一身のことに関しては、些事にこだわらないというか、軽く考えるようなところがあった。西郷自身の中にある決断の優先順位が、こと自分に関しては低いところにあるからだと思える。

人間は物事を判断決断するとき、自分自身の持つ判断基準をもとに優先順位を決めていく。その人が何を基準に優先順位を決めているかによって違った判断結果となって表れる。

討幕という目的のためには、三百六十五年続いた徳川幕府があまりに巨大に見えたため、小異を捨て全力で各自戦わなければならなかったが、江戸城無血開城により案外スムーズに行った。戦争につぐ戦争と長い内戦を経て、灰塵の中から戦国乱世を信長のように勝ちあがった革命政府ではなかった。そこで各自の小異が頭をもたげ、各自の判断基準が自由に歩き出し必然的に派閥政争を演じていくのである。そして征隊韓論争、西南戦争に至った。

西郷は五十年の生涯の中で、幕府に追われ奄美大島に身を隠さなければならなかったとき菊池源吾と変名して大島に渡った。その後何回かその時々で変名しているが、少年期・青年期の多くを通称の吉之助で通し、明治になっても吉之助でとおしており明治五年亡父の借金返済のため貸主の板垣興二次あて、明治六年叔父椎原興右衛門あて書簡には「西郷吉之助」と記されている。

隆盛と改名してもなお、よほどの公的なもの以外は吉之助と名乗り、西南戦争で翌日どん、もうここらでよかろう」と言って別府晋介に首を打たせるまでは西郷吉之助であった。

「吉之助」の名称は西郷の思想と行動原理が一体化した「イチロー」のようなブランド化されていたようなものではなかったかと思う。朋輩からは饗口之助サァー」と信頼と敬愛をこめた言葉で呼ばれ、幕末動乱維新回天の中で働いているときは、「吉之助の一諾」と西郷の伝記にあるように、吉之助という名には西郷の全部と言えるほどの思いと愛着と重みがあったのではないかと思われる。

西郷は身長百七十九センチ、体重は多い時で百十キロはあった。青春期や幕末動乱の中で活躍しているときも九十キロから百キロの間でなかったかと言われている。東京の上野公園の銅像を見ても、鹿児島にある軍服姿の銅像を見ても、明らかに太っている。太り過ぎではないが、貫禄のある肉のつき方で、当時としては相当大きな男であった。

江戸城無血開城を決定した勝海舟との会談を描いた絵の中でも、堂々とした大男として描かれている。眉は黒く太く、日は大きく「ウドメサースロの大きな人)というあだ名をつけられた。体格は雄偉で見るからに英雄の風格があったと評されている。

性格は誠実、真面目で温厚だが正義感は強い。普段は回数が少ないものの、話すべきときや意見を述べるときは、誠意ある言葉で話し雄弁であった。礼儀正しく、誰に対しても丁寧な言葉づかいで、威張ることはなかった。かえって自分の体の大きさが人を威圧しないかと気を使ったほどだった。人一倍愛情深く弱い立場の人を見ると助けずにはいられなかった。自ら正しいと信じることにおいては、相手がどんな権力者や権威者であろうと、一身を顧みず自ら信じる道を行った。

欠点としては、隠遁ぐせ(人間関係がこじれたり、人の嫌な面に接したりすると、「オレ、やめたっ」となにもかも投げ出し田舎に引きこもるくせ)。不正義、高慢、横暴なことに接すると切れることがあった(本人も自覚していて、切れないように常々努力していた)。これらの良いも悪いも含めた上での全てが「西郷吉之助」という名称にはある。

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