西郷党BLOG

仕末に困る人 西郷吉之助 2p005-第一章_03

仕末に困る人西郷吉之助

第一章 仕末に困る人

真面目な事務職員

檬膀仄鰊薩摩藩下級城下士西郷家の長男に生まれ、彼の下に三男三女がいた。二男が吉次郎、三男が慎吾(後の従道)、四男が小兵衛、長女は琴、二女は高、三女は安。

十五のとき、元服して通称「吉之助」とし隆永と名乗った。十八のとき、郡方書役助に任用された。家禄も低く大家族で貧乏であった。薩摩藩ではこのような貧困藩±の家計を助けるために、その子弟が十七、八になると、本人の持っている技能に応じて役目を授けて手当を与える制度があった。西郷は能筆であったため、郡方書役助に採用され、後に郡方書役となった。約十年間この職に就いていた。現在でいえば鹿児島県農政部の地方出先機関で働く事務職員といったところではないかと思われる。この間、評伝などにより次ぎの二点が知られている。

2 )西郷は数人の郡奉行に仕えたが、最も彼に影響をあたえたのは、最初に仕えた迫田太次郎右衛門利済であった。迫田は学問もあり見識も高く、無欲悟淡で奇骨稜々の武士だった。西郷は元来正義感が強く篤実で情のあつい性質なので、迫田奉行ともよく気が合い尊敬していた。迫田は西郷に「民は慈しむべきもの」と教えた。役目で奉行その他の上役に随行して、よく郡内の農家を巡視して歩いたが、病気や貧困で苦しんでいる家を見ると自分の手当を割いて恵むことがしばしばあった。奉行に話をして凶作で年貢を納められない農家の年貢を軽減してもらったこともある。
公一)朱子学の書である「近思禄」を大久保正助、吉井友実、伊地知正治、有村俊斎ら仲間と共同研究した。
西郷は郡方書役として、まめに田畑をまわって農民達と接し、重税にあえぐ農民の苦しさを現場で体験した。後の話になるが、西郷が征韓論で敗れ下野し、鹿児島に帰っていたとき、 帖佐という村で百姓一揆がおこった。それを聞いた西郷は県庁に出向いて、時の県令大山綱良に自分に一揆のとり鎮め役をさせてくれと申し込んだ。
当時西郷は帰国しているとはいえ、現職の陸軍大将であり元帥だったので、これではさしさわりがあるとして、県庁から雇員の辞令を出してもらい、そして帖佐村に出向いた。

そこで、西郷は当時の戸長(後世の村長)から委細の話を聞き、できるだけ農民の要求が通るように骨を折ろうと約束した。ところが、戸長は苦渋の表情で西郷にこう尋ねてきた。「自分たちとしては、農民と役所の間にいて役所の指示に従わなければならない立場ではあるが、農民の申し出が道理にかなっている場合が多い。このようなときはどちらの味方をすべきか」。西郷は「いつも農民を目の前にしていて農民の苦しみが分からないようでは姦吏である。もちろん農民の味方をするべきである」と答私が西郷に感心するのは、二十代の何2肩書きもない青年のときと、二十数年たって陸軍大将(当時日本に一人であり実際の軍のトップである)のときと、農民あるいは弱い立場にある者に対し取った行動が変わらないということだ。普通賢い大人はできない。まず自分の立場や損得を計算するから、不利になるようなことはやらない。
まして地位や名誉があれば、ちょっとでも不利になること損になることは絶対にしない、できない。それが普通である。
だいたい若いときは、どこの国の若者もそうであるが命を軽く考えるものである。
暴走族やテロリストに志願する兵らは若者であり、若いから命知らずである。四十代五十代になると自分の先が読めるようになるので、だんだんと命が惜しくなり、 一日でも長生きしようと願う。このへん西郷は地位と名誉を得た大人になっても若者にある命の軽々しさを常にもっていた。竜馬の言う大馬鹿者だったのである。

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