第一章 仕末に困る人
討幕という仕事
郷は、私費を投じ新しい牢舎を造って死の淵から救ってくれた土持政照のありあまる好意と親切に深い恩義を感じ、「兄弟の契りを結んでほしい」と申し出て兄弟の縁を結んだ。
沖永良部島での牢舎の生活は一年八カ月余りになっていた。元治元年貧八六四年)二月二十二日、突然弟信悟と親友の吉井幸輔が召還状を携え藩の蒸気船胡蝶丸で迎えに来た。この思いがけない召還は、柴山龍五郎ら十数人の有志の藩士が久光の前で一同うち揃って切腹する覚悟で西郷の赦免を嘆願したことによるものである。時勢は西郷を必要とし、歴史の舞台に引き戻そうとしていた。
島を去る時、西郷は義弟土持政照に島津斉彬から拝領した羽織をプレゼントしようとした。嬉しさのあまりあわてていたのか、自分の小脇に抱えているのに気付かずに、あちらこちら羽織を探したという。
帰途奄美大島へ寄り妻子と会い、さらに同じ罪で遠島になったのだからという理由で、大島のすぐ近くにある喜界島に立ち寄り、まだ赦免されていない村田新八を一緒に鹿児島に連れ帰った。西郷の性格なのであろうか、自分のことよりついつい人のことを考えてしまう。常識であれば、まだ罪も許されていない村田新八を無断でわざわざ連れ帰ることなどしない。自分自身がやっと赦免され帰れるとき、新たに罪を得るような行為は普通の人は損得を考えて決してしない。
これにより西郷は再び幕末動乱の歴史の表舞台に登場し、討幕という目的のため、その仕事を完成させようと一心不乱に突き進んで行く。西郷は三月中旬、京都に到着し軍賦役(軍司令官)に任命される。それから先、江戸城の無血開城までは、多くの人が知っていることなので西郷が成し遂げた仕事を事例として列挙してみたい。
一、一八六四年公九治元年) 禁門の変起こる。薩摩藩兵を率い長州軍と戦う。このとき銃弾で脚を負傷する。
二、同年九月 勝海舟と会う
三、同年十月 第一次長州征伐が行われる。征長軍総督・徳川慶勝より長州処分の一任をとりつけ広島に出向き、長州藩首脳と会い寛大な処分とする
四、 一八六五年六月(慶応元年) 坂本竜馬と会う
五、 一八六六年一月(慶応二年) 長州藩士・桂小五郎と会い薩長同盟を結ぶ
六、イギリス公使パークスと会談する
七、イギリス公使通訳アーネスト・サトウと会談する(アーネスト・サトウは日本語を話し、候文も漢字も書けた)
八、 一八六七年六月(慶応三年) 後藤象二郎・坂本竜馬。中岡慎太郎らと会談し薩摩・土佐両藩が盟約を結ぶ
九、 一八六七年十二月 王政復古令が宣言される。小御所会議
十、 一八六八年一月(慶応四年) 鳥羽・伏見の戦
十一、同年二月 東征軍大総督参謀として東征する
十二、山岡鉄舟と駿府で会う
十三、勝海舟との会談による江戸城無血開城
この中にあえてパークスやアーネスト・サトウとの会談も仕事として入れた。大久保、岩倉、木戸のように明治政府になって欧米に外遊した経験もないということで、西郷は外国の事情も理解しない古い体制の人間であるかのごとく評されることが多いからである。私はそうではないと思う。西郷は本質を見抜くことができた。イギリス・フランス・アメリカといった欧米列強が、帝国主義の時代の中で何をねらいとして日本に接してきているのかという本質を西郷は見抜いていた。フランスが幕府に肩入れする目的は何か、イギリス・フランス・アメリカなどのそれぞれの勢力関係はどうなっているか。それぞれの国の国内事情をはじめ、さまざまな情報を仕入れ、それにもとづいて欧米列強に侵食されずに幕府を倒し新国家を成立させるという微妙な舵取りを西郷はした。
島津斉彬は琉球を通して、いち早く欧米列強の帝国主義の波が日本に押し寄せて来るということを知っていたであろう。そのことを西郷にも教え、またそれに対して日本がどう対処すべきかを教えていたはずである。西郷は勝海舟からアメリカの情報も聞いたであろう。フランスが幕府に何を目的として援助しているのか、実態はどのようであるか聞いたであろう。イギリス公使パークスやアーネスト・サトウとも会い、さまざまな情報を収集し日本の進むべき道を考えたはずである。日本の国土が欧米列強の植民地にならず、 一坪の土地さえ租借されなかったのは、隙あらばと虎視眈々と狙っている欧米列強の中で西郷が見事な舵取りをしたおかげと言ってよい。
大久保も岩倉も京にいて宮廷政治に集中し、全方位に目を配れなかった。討幕も大事であるが、欧米列強に侵食されずに討幕を果たし、スムーズに新政府に移行させるための戦略戦術をもって全体を見ることができて、なおかつ要所要所を押さえていったのは、独り西郷のみであったといってもよい。