第五章 西郷と政治
西郷が目指した明治国家
極言すれば、民主主義の戦後日本のような国であろう。ただし、敗戦によリアメリカに押し付けられた民主主義ではなく、日本民族。国民が主体性を持った民主主義が西郷が目指した国家像だろう。これが西郷が理想とする尭。舜の治世に近く、『遺訓』
にある西郷の言葉、性格、そして「敬天愛人」の思想を併せ考えると、西郷が目指した国家は、主体性を持った上での現在の日本のような民主主義国家ということであろう。
西郷の考えた新国家建設の手順を見てみよう。第一に新国家の基本の経営方針を決めることである。三百六十年続いた幕藩体制から新しい体制をつくらなければならない。戊辰戦争もあったが内戦といえるほどでもなく、討幕は江戸城の無血開城により一年もたたず終了した。幸いに欧米列強の干渉も受けなかった。これをよしとし、日本を世界の中でどういう国にしていくべきかという基本方針を決めることが第一になすべきことと考えた。それは『遺訓』八項で次のように述べている。
「広く各国の制度を採り開明に進まんとならば、先づ我国の本体を居え風教を張り然して後徐かに彼の長所を掛酌するものぞ。否らずして猥りに彼れに倣ひなば、国体は衰退し、風教は萎靡して匡救す可からず、後に彼の制を受くるに至らんとす」『遺訓』八項)
(広く諸外国の制度を取り入れ、文明開化をめざして進もうと思うならば、まずわが国の本体をよくわきまえ、風俗教化の作興に努め、そして後、次第に外国の長所を取り入れるべきである。そうでなくて、ただみだりに外国に追随し、これを見ならうならば、国体は衰え風俗教化はすたれて救いがたい有り様になるであろう。そしてついには外国に制せられ国を危うくすることになるであろう)
しかし、西郷以外はそうは考えなかった。大久保、岩倉、木戸といった政府首脳は、欧米列強の強大さを恐れるあまり、いち早く彼らの制度と技術を取り入れ追いつけ追い越せの強迫観念にかられ、彼らを真似ることを第一とした。
明治になって、洋行した政府のある高官が西郷に「西郷さんも洋行して欧米の文明に触れ、見間を広められたらどうですか」と言ったという。この高官は西郷を頑迷固随な過去の人物のように考え、欧米の進んだ科学技術を目の当たりにしたら少しは目が覚めるだろうとでも思っていたのであろう。信長は宣教師フロイスから地球儀を贈られ、地球は丸いと本質的に分かったという。西郷は信長レベルの人間である。外国に行かずとも、欧米列強の本質を見抜きその科学技術のレベルもある程度は把握していたはずである。
薩摩藩では五代友厚らをイギリスヘ留学させ、そして一八六七年(慶応三年)の第二回パリ万国博覧会に家老・岩下方平を派遣し「日本薩摩琉球国太守政府」と名乗らせ、独立国として参加させていた。彼らをとおして、イギリスやフランスの社会体制や科学技術の程度も知っていたであろう。レベルの高い勝海舟の目で見たアメリカの情報、そして西郷自身が会ったイギリス公使パークスやその通訳のアーネスト・サトーと会うことで列強の外交政策と欧米人のものの見方や考え方を分っていた。さらに、なによりもこれらより以前、島津斉彬の秘書官として将軍継嗣問題で一橋慶喜擁立運動で動いているとき、西郷は主君であり師でもある斉彬を通して欧米列強の情報を知り日本を改革し欧米に対峙できる国にするための手順を教えられていた。
ここで西郷に多大な影響を与えた斉彬の考えと行動を記してみる。
・一八五一年(嘉永四年)二月、十一代目薩摩藩主になる。同年琉球から来たジョン万次郎を鹿児島に滞在させ、アメリカの情報を聴取し、藩士に造船法を学ばせる。
・一八五二年(嘉永五年)製煉所、溶鉱炉、反射炉の建設に着手する。
・一八五三年(嘉永六年)琉球大砲建造に着手する。蒸気船の建造に着手する。
・一八五四年(安政元年)幕府に日の丸の旗を日本国惣船印とすることを建議し、認められる。洋式軍艦「昇平丸」を日本で最初に建造し完成させる。
・一八五五年(安政二年)日本初の国産蒸気船「雲行丸」の試運転に成功する。
・一八五六年(安政三年)大規模なガラス製造を開始する。
・一八五七年(安政四年)磯に行き反射炉を視察する。磯の工場群を「集成館」、鶴丸城内の製錬所を「開物館」と命名する。
・一八五八年(安政五年)鹿児島を訪れた勝海舟に会う。咸臨丸を視察する。
同年七月十六日、病により死去する。明治維新になる十年前のことである
「日本をして世界に冠たらしめんと思ふ」。これは『島津斉彬言行録』にある斉彬の言葉である。斉彬は殖産興業により産業を振興し、富国強兵策で国力を増すことが日本にとって最重要で第一になすべきことであると考えた。それが欧米列強の日本への侵食を防ぎ、彼らと対等に付き合えることであると考えていた。そして、そのための一つの手段として現在ある幕府を改革し、その任に当たらせようとしたのが一橋慶喜擁立運動であった。
しかし、斉彬とともに幕政改革に尽力していた老中。阿部正弘が一八五七年(安政四年)に急死し、 一橋派にとって大きな打撃となった。幕府による日本の改革が仮にできなかった場合の次の手として、斉彬は討幕をも視野に入れた考えを持ち準備を進めていた。その事例として次に紹介するのは、海音寺潮五郎著『西郷隆盛』に掲載されている資料である。
「安政四年八月から九月の間に斉彬は数回家臣市来四郎と琉球在番奉行の高橋縫殿とを呼んで、次の条々を密命した。
一つ、琉球に行き、在琉のフランス人らと交際し、彼らの様子をよく察した上、大小砲ならびに航海の用具一式そろえた蒸気船を二艘(一艘は商船、一艘は軍艦)買い入れる約束をし、また琉球、大島、追っては山川港で貿易を開始するよう話を進めよ。(この琉球。大島・山川に貿易港をひらくことは、琉球解放につながる。これによって、後に斉彬は不慮の死を遂げなければならないことになる。〉
二つ、小銃製造の器械を十余台注文して取寄せよ。一台につき一年に五千梃ないし七千梃の製造能力のある器械である。
三つ、右の蒸気船と小銃製造器械の代金支払いは、三、四年の年賦にすることに交渉せよ。
四つ、琉球から三、四人、薩摩から五、六人の少年をえらび、英・仏。米に分遣留学させることを交渉せよ。
五つ、台湾に中国との貿易の中継地を設けよ。
六つ、福建の琉球館を拡張し、中国との貿易を拡大する計画を進めよ。
七つ、旧式廃銃砲を中国政府に売りこむ運動せよ。
この内旨によって、市来は琉球にわたり、在琉のフランス人と会って話を進めた。
フランス人らは大いに喜び、交渉はすべて決定した。市来はまた琉球商人の名日で中国に渡り、北京で軍部大官に会って廃銃砲売渡しの話をとりきめた上、天津、上海、広東等にも行き、それぞれの地における欧米人の状況をも視察して帰っている。
斉彬の命じたことのうち、琉球政府に琉球国が購入するという名目で、那覇に在留しているフランス人ラウレル、メルメの二人を通じて、軍艦・汽船・銃器製造器械等を買入れる交渉をさせる件も、旧銃器を中国政府に売りつけることも、薩摩と琉球から留学生を出して欧米各国へ派遣する件も、皆うまく行った。
艦船と機械購入のことについては、琉球政府が中国をはばかって、なかなか承諾しないので、市来は一策を案じて、琉球と日本九州との間に渡佳良という国があり、そこが購入するということにし、彼自身、渡佳良国の役人伊知良親雲上と名乗って、琉球政府の異国通事である牧志朝忠を通訳として、フランス人らに交渉し、フランス人らとともに中国に渡り、福州に駐衝しているフランス領事を立合人にして仮契約を結んだ。廃銃を中国政府に売り込むことは、やはりその時、中国商人らと談合して、北京まで行き、担当大臣と会って、持って行きさえすれば買ってもらえるという約束をとりつけることが出来た。斉彬は諸藩の注文を引受けて新式銃を造ってやると共に、諸藩の廃銃を一手に買占めて中国に売り出す計画だったのである。留学生の世話のことも、やはりその時フランス領事の最も好意ある承諾を得た。市来は中国の諸貿易港の景況を視察して、琉球にかえり、書面をもって斉彬に委細を報告し、フランス人との正式契約書を交換する裁可をもとめた。斉彬は市来の労をねぎらって賞詞をあたえ、契約書のことは裁可してやった。これは斉彬が引兵上京の決意をして、連日錬兵している時であった。だから、市来が斉彬の返書を受取り、フランス人等と契約書をかわして数日後には、斉彬は発病し、さらに数日後には死んだのである。
以上のように、斉彬は将来を見通して、遠大な計画を進めていたのだ。彼がいかに雄渾博大な構想をえがき得、またそれを実行し得る力ある人であったかが、よくわかるのである。おしいかな、この翌年初秋、急死し、計画はすべて空しいことになった」(海音寺潮五郎著『西郷隆盛し斉彬は一八五八年(安政五年)の時点でこれだけの手配りをしていた。斉彬がもう少し長く生きていたら、維新も違った形になったであろうといわれるのは、うなづけることである。
西郷にしてみれば、維新の十年以上前に薩摩藩では独自で蒸気船を造ることができたのである。日本の民力をもってすれば、欧米の進歩している科学技術や産業を取り入れ、それを自国のもととするのはわけがない。急ぐ必要はない。それよりは新しい国の経営理念や運営方針を決定することが先決である。
世界中どこの国家といえども、国民一人ひとりが存在することで成り立っているのであるから、その国民一人ひとりの活力を増大させるような国の体制にすることが一番重要である。そうすれば、国民の勤労レベル、教育レベル、道徳レベルはいやが応でも高くなる。そうなれば、当然科学技術や産業技術もついてくる。そうしてこそ、世界に冠たる日本をつくれるのではないか。西郷が言いたいのはこういうことである。