西郷党BLOG

道義国家を目指した 西郷吉之助 3p043-第四章_06

道義国家を目指した西郷吉之助

第四章  廃国置県

6 百年後の世界国家

世界政府の発想は以前から論議され、実現に向けた運動も行われている。国際連盟や国際連合も、さまざまな国家間の対立をなんとか調整する仕組みはないかと考えて設置されたと言えよう。しかしながら国家においては自国が存続するか否かが最優先事項であって、他国との調整などは二の次三の次である。国際連合において拒否権を持つ五大国に振り回されるのは当然である。自国の死活問題に直面した時は他国との戦争も辞さなくなってくる。伝統のある国家であればあるほど、また大国であればあるほどそうなりやすいのである。だが、どのような政治体制の、どのような民族の国家で生まれようとも、赤ん坊は一切そのこだわりを持っていない。その国の環境が後からこだわりを付けるだけである。

人間はこだわりを本能のように持って生まれるのではない。白紙の状態で生まれる。その白紙にこだわりを持たせない教育をするべきであるが、現実には、子供は国家のさまざまな教育方法に委ねられている。人類の宝であるはずの子供が種々さまざまなこだわりを持った大人となり、それぞれの国家を形成している。この教育循環が地球上の国々で繰り返されている以上は、人種と民族と宗教のこだわりから抜け出せない現状が続くだけである。人種にこだわらない、民族にこだわらない、宗教にこだわらない。人類がこの三つの「こだわらない」をクリアしなければ世界国家は出現しないだろう。

人類の至宝と言える子供の教育をそれぞれの国家にまかせるのでなく、国家を超えた機関が日本の義務教育のように平等・公平に行うのであれば、世界国家は必要ないかもしれない。無限の可能性がある子供に国家や親が宗教や特定の思想を植えつけてはならない。それは人間の偉大さへの冒涜である。
イスラム教であろうと、キリスト教であろうと、仏教であろうと、また、どのような政治体制であろうと、すべての国家の子供が日本の義務教育程度の教育を受けることが出来たら、今日とは違った社会が出現するかもしれない。その子供たちであれば世界国家とは異なった人類社会の仕組みを生み出せるかもしれないのである。

ここでもう一度西郷の言葉を思い出してみる。「天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心をもって人を愛する也」という言葉である。天という高い視点で人類を見たら、そこには人種や民族や宗教や国家はない。天は人類に等しく仁愛を施そうとするだけである。西郷はその天の思いを察するとき、自身も天と同じ思いをもって彼我を区別しないという境地に達し、それが究極の人の道であると感得したのだ。
それを「我を愛する心をもって人を愛する也」と表現したのである。
また、西郷は己に克つの極功は「意なし、必なし、固なし、我なし」(己に克つということの真の目標は論語にある。当て推量をしない。無理押しをしない。固執しない。我を通さない)と述べているが、これも平たく言えば「こだわりを持つな」である。人間は偉大なる可能性をもっと開花させるべきであり、それを結実させる環境が世界国家にあるならば早く世界国家を建設すべきであろう。

PAGE TOP