はじめに
西郷隆盛は「西郷さん」と呼ばれ多くの人が知っている名前です。日本の歴史上最大の変革ともいえる明治維新の主導者で、大久保利通や木戸孝允と並び維新の三傑といわれています。また、明治政府による維新の論功行賞で大久保や木戸が賞典禄千八百石であったのに西郷は二千石で、当時において独り抜き出て評価されていたのです。
しかし、西郷が明治政府の中央政府にいたのは二年余りです。明治六年征韓論争で下野し鹿児島に帰ってからは、中央政府に戻ることはありませんでした。そして明治十年の西南戦争で賊軍の大将として死んでしまったのです。明治政府に反乱を起こしたとして賊名を着せられ、西郷の賊名が解かれたのは十二年後の明治二十二年のことです。
西郷は討幕維新の実績とその言行により「大胆識」「大誠意」「大度量」の人と評され、英雄的風貌とあいまってそのようなイメージが定着しています。西郷の多くの伝記や評伝も、このイメージが基本となって描かれています。征韓論争にしても何十年も変わらない定説が現在でも論じられています。
しかしながら、『西郷南洲遺訓』を何度も精読していると、果たして西郷はそれのみの人物であったかと思えてくるのです。『遺訓』には西郷の人生観、哲学、思想、国家観が述べられています。歴史家や学者の方がこの『遺訓』をもとに西郷を研究してくれたら、今までの通り一遍の西郷像とは少し違う西郷像になったのではないかと思います。
二〇〇八年はサブプライムローン問題に端を発したアメリカの金融危機が世界に広がり、国際的な金融危機となっています。年の瀬も押し迫った十二月二十二日、あの「世界のトヨタ」が二〇〇九年二月期の連結決算で千五百億円の赤字になる予想と発表しました。二〇〇八年初頭にトヨタが初の赤字になると誰が予測できたでしようか。
新聞紙上には「百年に一度の不況」や「強欲な資本主義に歯止めを」の文字がありました。国家の役割とは一体何でしょうか。世界には三百近くの独立国家がありますが、その国家が国ではなく西郷の言う「商法支配所」となっていないでしようか。混迷が続く日本や世界は、『遺訓』の中で西郷が述べている国家観や世界観が今の時代にこそ必要ではないかと思われてなりません。
浅学非才の身ではありますが、長年の『西郷南洲遺訓』の愛読者として、西郷という人間をもっと知ってもらいたいと思い、『遺訓』の中にある西郷を私なりに書いてみました。
平成20年12月24日