西郷党BLOG

仕末に困る人 西郷吉之助 2p008-第一章_06

仕末に困る人西郷吉之助

第一章 仕末に困る人

横暴な代官、役人を懲らしめる

奄美大島竜郷に西郷がいるときのことである。薩摩藩の島の代官による年貢の取り立ては実に苛烈であった。奄美では年貢は米でなく黒糖である。奄美諸島は、十五世紀初頭には琉球王国の領国となっていた。 三ハ〇九年奄美諸島を琉球王国から武力で奪い取った薩摩藩は、それぞれの島に代官所を置き、新しい支配体制を強化していった。

奄美史では、琉球王国支配の時代を「那覇世」、薩摩支配の時代を「大和世」といって区分している。琉球王国治世のときと、さまざまな関係を断ち切らせるために、各村々から島民の戸籍や家系図を出させ、これを抹消廃棄した。また藩法で島民は一字名字とするように定めた。現在でも奄美には「元」「栄」「徳」といった一字姓が多いのはこのためである。島民は黒糖を年貢として藩庁に納め、米やそのほかの日用雑貨は藩の特売所で購入しなければならなかった。
奄美諸島は薩摩藩の搾取の対象でしかなく、その取り立ては苛酷を極めていた。島民の生活は、その日その日をしのいでいくのがやっとの状態であり、このような状況が明治になるまで二百五十年以上も続いたのである。このためか、奄美の民謡はもの悲しく、暗く、切々としたものが多い。あるとき、島民の有力者の家で酒宴があった。
西郷も招待され席に列していた。宴もたけなわになったころ、上座にいた代官所の役人の中村なにがしが、酒がまわるにつれくだを巻きだした。暴言をはき難癖をつけ、威嚇、威圧しだした。だんだん手が付けられない状況になってきた。代官所の役人といえば、島民を見下し高慢無礼な者が多い。権限をもっているだけに島民には逆らえない存在であった。

座にいる島民の誰もが自分にあらぬ災いがおよびはしないかと怖がってびくびくしている。西郷は離れた席でこの様子を見ていたが、これは捨ておけぬと憤りを発し、立ち上がって中村なにがしの前に行った。いきなり「その横暴はなにごとかっ!」と大喝し、固めたげんこつで思い切り頭を殴りつけた。中村なにがしは驚き怒ったが、西郷のあまりに激しい怒りと気塊におじけづき、すごすごと席を立って去って行った。
このことはすぐ評判になり、高慢無礼な役人をよくぞこらしめたということで村人は涙の出る思いであった。それ以後、中村なにがしは高慢無礼をしなくなったという。

また、西郷が大久保あての手紙に「島中とんと米払底で、大凶年です。砂糖も不出来で百姓共難儀な様子で」云々と書き送った年、年貢の割当額に達しない島民が多かった。役人は自分たちの成績にかかわるとあせり、その島民十数人を呼び出して拘束した。大久保あて同様の手紙に「島に対する藩の政治は言語道断な苛政で、見るに忍びないものがある。北海道の松前氏の蝦夷人に対する政治もひどい由だが、それ以上と思う。最も苦々しいことだ。こんなにひどかろうとは予想もしなかった。驚くべきことである」とある。

西郷は以前からこうした役人のやり方を憤っていた。猛然と立ち上がり、旅支度をして四里余りの道を本役所のある名瀬まで行って時の代官相良角兵衛に面会を求めた。不作の年に普段の年の取り立て基準を果たすことは理に合わないことである。西郷は島民を許して釈放してくれるよう頼んだが、代官は西郷が口を出すべきことではないと職権をたてに突っぱねた。藩主はこの現状を知らないであろうから、自分としては島津家の家臣である以上、報告し改善を求めてもらうため、上申する手段を取る以外ないと西郷は強く言った。西郷は先君斉彬の無二の寵臣でもあり、そこまで話が大きくなっては自分の非を責められかねないと代官は思い、西郷の要求を受け入れ、十三力所の出張役場に拘束していた島民を釈放した。

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