第三章 道義国家
5 道義国家とは
簡単に例えれば、自由主義が車のアクセルとするなら道義主義はブレーキである。しかも、自由主義も民主主義も道義主義という基盤の上に成り立つものである。アクセルだけで車を走らせてもうまくいかないように、道義主義というブレーキの役目があってはじめて、アクセルが生きてスムーズに車が走るのと同様である。人間は他の動物とは違い、人間として生きなければならない大きな人の道がある。道義という人が人であるための正しい生き方である。それは、五百万年、七百万年に及ぶ人類の進化の過程で人間にDNAのように組み込まれている。
人類は幾度となく戦争を繰り返しながらも、進化し続けて今日の文明の繁栄を築いた。その進化のDNAは主に次の四つであろう。一つ目は危機感を持つことであり、二つ目は情報の伝達であり、三つ目は未知への挑戦であり、四つ目が道義というDNAといえる。この道義のDNAは人類進化の過程ではあまり発揮されず、他のDNAが九九%とするなら一%ぐらいであったであろう。しかしながら、この一%の道義を持っていたからこそ、人類は戦争を繰り返しながらも滅亡をまぬがれたのだとも言えるのである。
物質文明の中で生きている現代人にとって道義は埋もれたままのDNAであろう。
どんなに科学技術や産業が発達し生活が豊かになろうと、人間は人間として生きなければならないのである。そこには人として生きる目的が厳然として存在するはずである。人の一生とは何か、人の成長とは何か、これらのことも生きていくうえで重要なことである。船が航海するとき必ず目的地があり、目的地までの指針となるコンパスが必要である。人生航路においても目的が必要であり、そこに正しくたどり着くためのコンパスが必要であろう。
科学技術が進み様々な産業が開発され、物質文明への依存が深まっていくとき、人や社会には道義という概念が必要である。そうでなければ自由意志と物を創造する力を持っている人間には、自由主義や民主主義はエゴをいたずらに増大させることになる。人類は自由主義や民主主義という概念を生み出し社会に定着させてきた。二十一世紀の現在、これだけ物質文明が進んでいるときだからこそ、なおさら道義主義という概念を人類は持つべきである。そうすることによってはじめて人類はバランスを保って、さらなる進化を遂げることができる。民主主義や自由主義を取り入れて自由主義民主主義国家が成立したように、道義主義を国家運営の根本に置いて、この道義の上に立脚する自由主義民主主義国家が道義主義国家である。
二十一世紀の人類は世界経済という大きな網を地球のすみずみまで被せ、国家も国民も経済活動なくしては生きていくことが困難になってしまっている。