西郷党BLOG

仕末に困る人 西郷吉之助 2p009-第一章_07

仕末に困る人西郷吉之助

第一章 仕末に困る人

西郷の思想形成と行動原理は奄美大島で培養された

奄美は当時、西郷が生まれ育った鹿児島や斉彬の秘書官として行動した京、大阪、江戸とも気候・風土。文化・風習・言葉が全く違っていた。そういう意味では外国ともいえた。外界と遮断された「外国」で約五年間生きたことが、他の幕末・維新の英傑とは違った色の人格になったのであろう。 一度目の奄美大島竜郷に流されたときは、『孫子』『韓非子』『春秋左氏伝』『通鑑網目』『近思録』響塁心録』を持って行ったことが分かっており、その他の書物も多数持っていったであろう。

西郷の読書の仕方は現代で言えば、大金持ちになりたい人、成功したい人が、ナポレオン・ヒルの書いた成功哲学や、その道の成功者が書いたノウハウ物を読むように、はっきりとした目的を持って読んでいた。西郷の言葉でいえば、誠意を持って聖賢の書を読むことである。ノウハウ物であるから、技術であり、そこに至るまでの方法段階である。自分で覚え、自らをその型に入れ込まなければならない。要は自己流を捨て、成功者の真似をしなければならない。

西郷が目指し、なりたかったものは聖賢である。人生において聖賢の道を行うということである。ゆえに読む本は聖賢になるためのノウハウ書であり、それに類する、あるいはそれに必要と思われる本を選んで集めた。なんと言ってもノウハウ書であるから目的は明確である。
西郷は十八歳から二十七歳ころまで郡方書役を務めていたが、大久保ら数人の仲間と『近思録』の共同研究をしていたときがあった。近思録の中に「聖人、学んで至るべきか。可なり」という文がある。聖賢というものは、学んで到達することができるものであろうか。可能である、できる。その可能性においては、皆聖人になる可能性があると言っている。西郷は若いとき『近思録』のこの文を見て、本気で聖人賢人を目指すため、そして聖賢の書を気合入れて読んだのであろう。大金持ちになりたいために、あるいは成功者になりたいがために、ナポレオン・ヒルの成功哲学をバイブルのように読むように、である。

二十一世紀の現代、物質至上主義、拝金主義などが叫ばれ、とにかく金を持ったやつが偉い、金があったらなんでもできる、金が正義であり、金が善であるという考えの風潮になっている。二〇〇八年に格差社会がますます拡大し、後期高齢者医療制度が問題となった。ガソリンが高騰し、自分の金であればこうもいい加減に使わないのに、人の金(税金)はいとも簡単にぞんざいに扱い使うという社会保険庁の年金問題。何が正しくて何が正しくないのか、その判断基準さえ定まらない時代である。まあ、こういう時代だからこそ、目に見える物質に価値基準をおくのであろうが。

西郷の目指す聖賢の道というものは、形としてあらわれる物質のように見えるものではない。幕末という当時でも、ごく一部の人の目標であり、日標とするような人は変人奇人と言われたであろう。ましてや現代では孔子や孟子の生き方をまねるなど、変人奇人の極みである。金持ちにはなれず飯を食って生けるかどうかさえも分からない。まったく馬鹿な生き方だと思われるだろう。西郷という男は、これを本気で行おうとし、日の前に現れる事象によって己を訓練し、 一歩一歩と聖賢に近づこうとした人間である。この過程の中に幕末維新、明治があったと考える。青少年に将来の夢、希望、なりたい職業などのアンケートを取ったら、スポーツ選手、芸能人、公務員、社長、弁護士、医師、看護師、等々いろいろな夢や職業が出てくるだろう。聖人君子になるとか、聖賢の道を志すというのは、今も昔も特殊なジャンルで全くの少数派であろう。西郷はその少数なジャンルを選択したのである。

後年、「島津斉彬ほどの英明な藩主が西郷のどこを気に入って、取り立てたのであろうか」と尋ねられて、西郷は「自分もどこを気に入ってもらったのか見当がつかないが、あるとすれば、何十回も建白書を提出したことぐらいしか思い当たらない」と言っている。何度もせっせと書いた西郷の建白書が、ある目的を持っていた斉彬の目に止まり、西郷は活用すべしと歴史の表舞台に登場させられたのである。これは二〇〇八年のNHK大河ドラマ『篤姫』と同じパターンである。西郷の持つ特殊な志を斉彬が教育訓練し、政治の世界で後々仕事をやりやすいように有名人にしてしまった。

師であり庇護者であった斉彬が亡きあと、月照との入水事件を経て、この聖賢の志が本物であるか否かが試され、そして検証しなければならないその舞台が、奄美大島であった。本人も意識の中に感じていたことである。奄美大島竜郷は入水事件後の傷心の西郷にとっては天の配材と思えるほど恵まれた環境であった。藩から多少の支給もあり、一人で生活できるぐらいの余裕もあり、村の有力者や島民にも尊敬され親しまれ妻子もでき、心の落ち着く楽しくも心の癒される日々であった。

晴耕雨読を常とし、聖賢の書を読むことや心の鍛錬は怠らなかった。また日々の島民の生活状況や藩の島民に対する治世の善しあしも観察していた。島民の困窮をなんとか救ってやれないものかと思ったろう。果たして何も権限を持たない一介の潜居人の己が、何ができ何ができないかということも真剣に考えたであろう。また、いにしえの聖賢が自分と同じ立場にあったら、どう考えどう行動するであろうかと思いめぐらせたであろう。「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉、それに対する己の行動力。『孟子』にある、浩然の気、側隠の情とは、言葉とそれに伴う己の行動。聖賢の書にある字義を研究し、それを行動に至らせるための心の鍛錬。これらのことを日々の生活の中に取り入れた三年間の島での生活であった。
三度目の島流しは罪人としてであり、運命に自決を迫られているのではないかと思うほど苛酷であった。最初の遠島命令書には奄美大島より先にある徳之島と指示されており、そのほかの指示はなかった。徳之島に着いて三カ月半が過ぎ生活も落ち着きかけたころ、西郷の妻が子供二人を連れて奄美大島の竜郷から便船に乗って会いにきた。西郷が鹿児島に召還されたときはまだ生まれてなかった子供も伴っていた。

妻子が徳之島に着いた日に、くしくもその同じ船で鹿児島からさらに遠くの島である沖永良部島への遠島命令書が徳之島の代官所に届けられていたという。今度の命令書には「囲い入り」と指示されており、妻子と再び会うこともかなわないまま独り船の中にある囲い牢に入り、沖永良部島へ向けて出船した。沖永良部遠島は切腹につぐ重罪であった。着いたとき、囲い牢はまだ出来上がっていなかったので船の中で二日待った。牢の広さは二坪ほどで、床と天丼があるだけ。四方は牢格子で囲ってあり、メジロを入れる竹で作った鳥かごを巨大にしたようなものである。それが代官所の近くの空き地にすえられていた。四方に壁がないのであるから風雨は容赦なく入り、野ざらしの状態であった。西郷は三度の食事のほかは水も湯も求めず、起きているかぎりは昼夜端然として坐って読書したり瞑想したりしていたと伝えられている。このとき読んだ書は、『韓非子』『近思録』曇一塁心録』『通鑑網目』『暖鳴館遺草』などであったと伝記では伝えられている。昼夜を問わず風が吹き抜け雨は中まで打ち込み、ハエ、蚊、虫も入り放題の過酷な環境の中で何を思い何を考えていたのであろうか。

普通であれば絶望感に支配され、運命を呪い気を狂わせたくなる。人が見ていようと見ていまいとかまわなくなり、寝そべったりわめいたりする。自堕落になり無気カとなり、ついには食うのと寝るだけの動物のようになるであろう。西郷は己に死をせまるような運命と対峙し、逆にこれは絶好の修行の場であると思い、己の運命と対決しようとしていた。吉田松陰の言葉に「境、順なる者は怠り易く、境、逆なる者は励み易し」とある。

まさしく西郷のおかれている環境はきわめて逆境である。もともと人間は、なまけもので、いい加減で、横着である。自己の生命の維持を第一に考え、自分にとって損か得か、自分にとって都合が好いか悪いかなど、自分の損得好悪を行動・判断の基準の第一に置く動物である。それは当然のことと言えば当然のことではあるが、いやしくも西郷のように聖賢の道を志すものならば、贅肉を落とすごとく、これらの人間のもつ動物的なものを少しは削ぎ落とさねば聖賢の道へは入れない。

西郷の持参した「一一日志録』の中に「慎独の工夫は、営に身桐人広座の中に在るがごとく一般なるべし(人のいない所でも身を慎んでいく修養工夫は、自身が大人数の集まりの中にいるのと同じような気持ちでいなければならないごとある。囲い牢はまさしく閑居であり慎独の場所である。西郷も『言志録』のこの項目を見て、そう思いそう行動すべきと思ったであろう。読むべき本を噛むようにして何回も何回も読んだのであろう。自己との戦いであり運命との戦いであった。日が経つにつれ西郷の髪と髭は伸び放題となり、頬はこけ、痩せ細っていった。 
 
 
獄舎の番人として西郷に接し、その行動を見ていた島役人である土持政照(島民としては最高の役である与人《村長》と問切横目《郷中監察役とは、「このままでは西郷が衰弱して死んでしまう」と代官に救済の手はないものかと申し入れた。代官は「遠島命令書のとおりであれば、いたしかたがない」とつっぱねた。土持政照は西郷が先君斉彬の寵臣であり、国事のために働いていたことやそして遠島になった経緯も知っている。西郷と日々接するうちに西郷の人柄や人間的魅力にふれて尊敬するようになっていた。

そこで何としてでも助けてやりたいという思いに至り、もう一度代官に頼み遠島命令書を見せてもらった。厳重なる囲いとだけあってほかの指示はされていない。そうであるなら、屋根や壁のある家の中であっても、厳重に牢格子で囲った「囲い牢」にすれば問題ないと考えた。土持政照は自分の私財で西郷の住める家を造り、その中に囲い牢を設けて厳重に管理するという条件で代官に申し出、代官の許しを得た。これによって、土持政照が新築した数室ある家に西郷は移り健康を回復した。なんといっても家の中である。また西郷を慕う土持政照が管理者である。ある程度の自由はできたであろう。

吉田松陰の『講孟余話』、尽心下篇六章に「余野山獄にありて三宅尚斉(三全全一年― 一七四一年、山崎闇斎に学んだ崎門三傑の一人。忍藩阿部正武父子に仕えたが、直言して怒りにふれ三年間幽閉された) の伝を読み、その獄中の詩を見て大いに感じ座右に貼し坐臥これを見る」とある。それは「富貴寿夭心を二つにせず、ただ面前に向ひて誠心を養ふ。四十餘年何事をか学びし、笑ひて獄中に坐す鉄石の心」(寿夭=長寿と夭折、長生きと若死に)という詩である。この三宅尚斉の詩を西郷もまた牢壁に書して日夕吟誦したという。

野山獄とは、吉田松陰が一八五三年(嘉永六年)下田密航に失敗し、その罪で一八五四年(安政元年)から一八五六年(安政三年)まで閉じ込められていた萩(長州藩)の牢舎のことである。ほぼ同じ時期に一面識もない二人が奇しくも獄中で同じ詩によって励まされていた。西郷が移った新しい牢は屋根や雨戸のある家ではあったが一歩も囲いの外へは出られない。西郷はこの環境を俗事にわずらわされることなく余念なく学問一筋にできるので、かえって好都合なことであると、とらえた。月照との入水事件で自分だけが生きたこと、奄美大島竜郷でのこと、徳之島でのこと、沖永良部島で野ざらしの囲い牢で死の淵にいたこと、土持政照に命を救われたこと、そして現在新しい家の牢にいること、さまざまな事象の変化はあった。これらの一つひとつの出来事は、天は自分に対し何を暗示したくて存在させたのか。その天意を知ることはできないのか。天意を知ることができれば、それに従うことができる。天意を知るために現在ある環境を全て認め、そして誠意をもって眼前の変化するあらゆる事象に対応しようと西郷は全力を尽くした。そこに私心を入れない訓練をすることが、天意を知り得る方法であると思った。

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