第三章 聖賢への道
聖賢への練習(2) 我欲に克つ
人間は自己の維持と快楽を求める想念で99%以上占められているとすれば、必然的にその行動は自己の維持と快楽のための行動となってくる。人間が生きていく上で、この行動は人間の本能ともいえるものである。しかし、この行動が他を顧みず自己中心的になりすぎることを「己を愛すること」と西郷は呼んでいる。利己的、エゴ、我欲といったものである。「己れを愛するは善からは噂一也。修業の出来ぬも、事の成らぬも、改むることの出来ぬも、功に伐り矯慢の生ずるも、皆自ら愛するが為なれば、決して己れを愛せぬもの也」(遺訓二十六項)
(自分を愛すること、即ち自分さえよければ人はどうでもいいというような心はもっともよくないことである。修業のできないのも、事業の成功しないのも過ちを改めることのできないのも、自分の功績を誇りたかぶるのも皆、自分を愛することから生じることで、決してそういう利己的なことをしてはならない)
人は誰しも、人に非難されたくない、バカにされたくない、軽くあつかわれたくない、常に自分が有利な立場にいたい、自分は間違っていない、自分は正しいなど「自分自身にとって」という自分だけの考えがある。それは自分にとっての都合であり、自分にとっての損得であり、自分にとっての正義である。これを放っておくと、西郷の言う「己を愛すること」が体のすみずみまで行きわたり、ついには我欲のかたまりとなり、人間より動物に近くなってくる。
吉田松陰の言葉に「耳目口鼻は家臣で心は主君である」というのがある。耳や目や回や鼻といった機能を独立して存在する「家臣」であるとし、「心」は家臣が仕える主君にたとえている。耳の機能を通しての人間の欲望がある。たとえば、優しい言葉で一言ってほしい、美しい声やいい音楽などを聞きたいという耳の欲望である。日であれば、日の機能を通して目が欲する欲望、日であれば、味わう、おいしいものを食べたいという欲望である。鼻であれば、華の香り、香水といった鼻の機能を楽しませる欲望である。
こうした欲望により、耳目口鼻は各自の機能を自由勝手に発揮しようとして自己主張する。しかし、主君である「心」は家臣にふりまわされずに、見るべきものを見て聞くべきときに聞くという具合に家臣をコントロールすべきである。家臣のわがままを許しておくことは、主君の役目を果たしていない。主君として申し訳が立たないことであると言っている。
人間の欲はこの四つの入り日から入ってくる。この欲をコントロールすることは大変なことである。常日ごろからこの欲をコントロールするという気構えで、我欲に克つ練習をしておくべきである。この欲を軽く考えたりあなどったりしてはいけない。
いつ何時強大となり、瞬間に「心」を押さえ込んでしまうか分からない。強敵であるので常々意識して克ち続けていかなければならないと西郷は言っている。己の我欲に打ち克つ訓練を常に行い、耳目口鼻を四頭立ての馬車を走らせるように、心という御者は耳目口鼻を制御し走らせなければならない。
次に紹介するのは西郷の『遺訓』の言葉である。
「己れに克つに、事々物々時に臨みて克つ様にては克ち得られぬなり。兼て気象を以て克ち居れよと也」(遺訓二十二項)
(己にうち克つにすべてのことを、そのときその場のいわゆる場あたりに克とうとするから、なかなかうまくいかぬのである。かねて精神を奮いおこして自分に克つ修業をしていなくてはいけない)