第三章 聖賢への道
ゆとりをもって、おもしろく生きる
ゆとりと言えば、生活する上での「ゆとり」を考える。それも必要であるが、私が一言いたいのは死生を達観したような人間としての「ゆとり」のことを言いたい。若いとき、さまざまな訓練や苦労を自らに課して、人間や人生に対して「ゆとり」を持つということは、何にもまして大切なことであると思う。自分の精神に余裕がある。余裕があると人に寛大になれる。優しくなれる。許すことができる。
たとえばあなたの年齢を三十歳としよう。四歳の幼稚園児があなたに向って「うそつき、バカだ、アホだ」と馬鹿にしたとしよう。あなたは本気で怒るだろうか。四歳の子供と比べれば体の大きさ、年齢、人生経験で絶対的な差があると分かっているので、怒りもしないだろう。しかし、同じ言葉を同年生か二、三歳年下の者に言われたら、かっと頭に血がのぼり、怒ったり言い返したりして喧嘩になるかもしれない。あなたと相手との間に四歳の子供ほどに絶対的な差がないと分かるので、同じ言葉であってもあなたにまともに影響を与えてしまう。
今度は三十歳のあなたが、体格は同じぐらいとして、キリストや釈迦や孔子に同じことを言ったらどうだろうか。キリストや釈迦や孔子が頭にきたといって怒り出すだろうか。彼らは、あなたが四歳の子供に言われたぐらいの気持ちであろう。同じ人間ではあるが人間の持つ力量に差がある。
仮に力量を数値で表すことができるとしたら、一万の力量を持っている人なら、九千ぐらいは人に出すことはできる。しかし、百の力量であれば九十ぐらいしか出すことはできない。人や世の中に与える影響力も違ってくる。力量が多ければ多いほど、人間としてのゆとりや余裕の大きさに変わってくる。
吉田松陰は二十五、六歳のとき獄中にいたが、ゆとりと余裕をもって獄舎を勉学の教室に変え、十年以上牢にいる囚人を有能という理由で藩に働きかけ六人を出牢させている。司獄(牢役人)も生徒に変え支援者にしている。これは松陰と周りの人との間に格段の力量の差があるからできることである。地球が太陽のまわりを回転するのも、月が地球のまわりを回転するのも、質量に絶対的な差があるからである。松陰は入牢しながら久坂玄瑞や高杉晋作を強烈に動かした。維新をまさに回転させたのである。西郷も修業を重ね徹底して力量を増大させた。
私は若いときから、さまざまな困難に出会って、そしてこれを乗り越えてきた。今
はどんなことに出会っても、動揺したりうろたえることは決してない。それだけは幸せと言えば幸せである。
西郷の言葉では「今はどんな事に出会ふ共、動揺は致すまじ、夫れだけは仕合せなり」となる。生死を達観した絶対の自信に満ちた見事な言葉である。これぐらいのゆとりがあれば人生はおもしろく生きられる。そして命を天に返すべきときと判断したら、「晋どん、もうここらでよか」といって命を天に返せばよい。
若者が強くたくましく元気があって明るく志をもって、おもしろく生きてほしい。そのために人間としてのゆとりを持てる訓練を第一にすべきであると思う。奇兵隊を創設し「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と評され、幕末を駆け抜け二十八歳と七カ月で息を引きとった高杉晋作の口から出た最後の言葉は「おもしろきこともなき世におもしろく」であった。