第五章 西郷と政治
西郷の外交
明治六年の政変で西郷が下野した後は、大久保の思うままの明治政府となった。 一八七四年(明治七年)五月二十二日には、しなくてもよい台湾出兵をしてしまう。西郷の弟、陸軍中将従道を台湾藩地事務都督とし、三千六百人の兵と軍艦による遠征であった。そして、ベリーがかつて日本を開港させたと同じ方法で朝鮮に一八七六年(明治九年)二月二十六日「日朝修好条約」を結ばせ、釜山ほか二港を開港させた。
西郷が一番嫌う方法で開港させた。しかも欧米列強の武力に屈して日本が結んだのと同じ不平等条約を未開の国に対して押し付けたのである。西郷は遣韓使節として自ら朝鮮に行き、平和的に開国の利を説こうとしたのである。
「情けない。日本の道義も地に落ちた」と憤りそして嘆くであろう。西洋は野蛮である。文明国なら、未開の地に対するほど、親切丁寧に道を説き開明に導くべきである。そうでなく武力をもってするとは日本国も野蛮である。大久保・岩倉政府のやり方にこう怒ったであろう。この延長線上に日清。日露の戦争があり、日韓併合、日中戦争、太平洋戦争となり、結局は二十世紀の欧米列強に屈することになる。
大久保・岩倉。木戸。大隈。伊藤・山県のレベルでは欧米列強に対するには力量不足である。斉彬や西郷レベルでないと無理である。これは二十一世紀の現代でも変わらないであろう。西郷は「道を行うには西洋東洋の区別はない」と言っている。日本が世界に冠たる道義の国となり、野蛮な西洋に文明を広めてはどうであろうか。
『遺訓』の次の文章には西郷の外交に対する考えが表れている。
「正道を踏み国を以て斃るるの精神無くば、外国交際は全かる可ならず。彼の強大かえっけいぶに畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従する時は、軽侮を招きういれ、終に彼の制を受くるに至らん」『遺訓』十七項)
(正しい道を踏み国を賭して倒れてもやるという精神がないと、外国との交際はこれを全うすることはできない。外国の強大なことに恐れ縮こまり、ただ円滑にことを収めることを主眼にして自国の真意を曲げてまで外国の言うままに従うことは、侮り好親却て破
を受け親しい交わりがかえって破れ、しまいには外国に制圧されるに至るであろう)
「談国事に及びし時、慨然として申されけるは、国の陵辱せらるるに当りては、縦令国を以て斃る共、正道を践み、義を尽すは政府の本務也。然るに平日金穀理財の事を議するを聞けば、如何なる英雄豪傑かと見ゆれ共、血の出る事に臨めば、頭を一処に集め、唯日前の荀安を謀るのみ、戦の一字を恐れ、政府の本務を墜しなば、商法支配所と申すものにて更に政府には非ざる也」『遺訓』十八項)
(話が国のことに及んだとき、たいへん嘆いて言われるには、国が外国から辱めを受けるようなことがあったら、たとえ国全体でかかってたおれようとも正しい道を踏んで道義を尽くすのは政府の務めである。しかるにかねて金銭や穀物や財政のことを議論するのを聞いていると、何という英雄豪傑かと思われるようであるが、血の出ることに臨むと頭を一ところに集め、ただ目の前の気やすめだけをはかるばかりである。戦の一字を恐れ政府本来の任務を果たせないようなことがあったら、商法支配所すなわち商いの元締めというようなもので、一国の政府ではないというべきである)