第六章 這韓使節論
大久保の弱さ
大久保は強靭な意志力を持ち、相手があきれかえるほどに粘り強くそして冷静かつ明敏で、 一度決断したことはどんなことがあっても成し遂げるという強い人物と評されている。大久保の威厳は辺りをはらうばかりで接する人はその威にうたれたという。
また、人は位に相当する威儀威容を保つべきであるとも述べている。東京では二千五百坪の大邸宅に住み、その地位に応じた儀容をした。
そこへいくと西郷は気楽であった。 一度は死んだ人間であり、三度島流しに遭い吹きざらしの囲い牢にいた人間である。妙なプライドを持ったり人の目を気にしたりすることもしなかった。
大久保は西郷とともに国事に青雲の志を抱いた同志である。同志の中で西郷ひとり明君島津斉彬に見い出されたことにより、取り残された感があったであろう。しかし斉彬亡き後、次は自分の出番であると思い、必死で久光に近づき実力を示すことでその信頼を得た。
また、久光の信頼を得るということは、ある面では久光と同質化しなければならないということである。久光が政治手法として統制主義を好むならば、大久保は久光以上に統制主義にならなければならない。そういう久光が好むパフォーマンスを演じきれなければ信頼を得ることは難しい。幕末、久光の信頼を得て久光を動かし薩摩藩を討幕藩にした大久保の功績は非常に大きい。久光に嫌われている西郷では到底不可能なことである。しかし、権力者から権力を借りて行使するという大久保の考え方。
手法には弱さがある。それは常に自分より権力がある者には気に入られなければならない、信頼されなければならないという心の弱さである。権力者から信頼を失うことの恐れ、また自分自身が権力を失うことの恐れである。それが弱さにつながっている。この失うことの恐れが失いたくないという思いに変わり、それが「自らを愛する」という自己愛になってしまうと西郷は指摘している。
版籍奉還では実質的に明治国家になったとは言えず、廃藩置県は大久保にとっても国家の形成をなすためには避けて通れない大決断であった。次はこれを実施するための大久保のシナリオを考えてみる。
大久保が想定する一番大きな障壁は、島津久光であった。旧主君であり大薩摩藩の支配者である。今でも西郷と大久保は自分をたぶらかし、島津幕府ではなく明治国家にしたと怒っている。また、久光の近くに長くいただけに、その性格もわかり恐さも知っている。廃藩置県により薩摩藩を消滅させ、あまつさえ中央政府から久光に代わる役人が来るとなれば、どれほどの怒りになるか分からない。それを自分が首謀者として行うことは、旧主への裏切り行為ともなる。後世に悪名を残すかもしれない。こう考えるとき西郷が一番の適任者であった。
西郷と久光は犬猿の仲である。久光にすれば、西郷は自分を主君と思わず兄斉彬と比較し、命に服しない不届者だった。西郷にすれば、久光は主君斉彬を毒殺した一味の片割れにみえた。大久保が両者の関係をこのように分析していたとしたら、西郷はまたとない廃藩置県断行の役者であった。そして、次は鹿児島に引き籠もっていた西郷を引っ張り出す手順である。
大久保は政府組織を改革し自分のよるべき強大組織をつくり、それが完了すると久光の怒りを避けるため、しばらく日本にいないことにする。これが大久保にとって考えられるベストのシナリオである。
遣欧米使節団はもともと大隈重信が企画したものであった。それを大久保が強引に横取りするようなかたちで岩倉を大使とする大規模な使節団とした。これもすべて久光の怒りを避けんがための大久保のシナリオとすれば、征韓論争によって西郷を失脚させることは必然のものとなってくる。自分の権力基盤を脅かす者が存在してはならないからである。大久保ばかりを悪く書いているように思われるかもしれない。しかしながら、小は町内会の組織から大は国の組織に至るまで、その組織の規則に権限の規程があれば、大なり小なり権力欲が出てくるものである。権力を行使するときは、誰しも一種の優越感を持つものである。
大久保は久光の側近となって以来、常に権力の中枢にいた。西郷のように権力の中枢と底辺とを、行ったり来たりはできないのである。そこに権力の魔力がある。
権力を失うことを恐れない。信用をなくすことを恐れない。非難されることを恐れない。裏切られることを恐れない。困窮することを恐れない。これは西郷の言う「仕末に困る人」の要素である。大久保の強さは獲得する強さであって、失うことへの強さではない。何ものも恐れぬとは失うことへの強さである。西郷は若い時からの修業でこの強さを身につけていたから、多くの人を魅了し歴史を動かし得たのであろう。