西郷党BLOG

西郷と松陰 西郷吉之助 p017 第二章-03

一箇の大丈夫西郷吉之助

孤島幽囚の楽しみ

奄美大島龍郷から召還された西郷には、わずか二カ月あまりで今度は徳之島遠島の運命が待っていた。帰藩後、島津久光に会い下関での待機を命じられる。しかし、西郷は命令を無視し、京、大阪の地において討幕決起をはやる志士浪士を扇動したということで、久光
の怒りを買ってしまうのである。捕縛され罪人として島流しになる。徳之島で遠島人の生活をしていたが、久光の怒りは収まらず、さらに離れた沖永良部島へ「囲い牢に入れ昼夜監視すべし」という厳命が二カ月後に下された。

西郷は船の中でも牢に入り沖永良部島に向かった。牢はまだ出来ておらず船内で二日待った。代官所の空地に海に面して建てられた牢舎は、二坪ほどの天井と床があるだけ。四方を牢格子で囲まれ、文字どおり吹きさらし野ざらしだった。西郷は大きな体をかがめて入り口をくぐった。牢内の半分は居所で、半分は板で仕切って厠になっている。獄舎の監視は附役の福山清蔵と横目役の土持政照が一日おきに交代で当たった。

「西郷は三度の食事のほかには水をも飲まず湯をも求めず、昼夜をおかず端然として黙坐していた。日が経るに従って、頭髪は乱れて來る。髯は蓬々と伸びて來る。衣服は垢づいて臭くなる。三度の食事といつても、冷飯に焼塩、それを真水で流し込むに過ぎぬ。栄養の不良に加ふるに屋外の日光に触れぬのである。顔貌の憔悴す枯稿(やつれ、やせ衰える)し行くは当然である、生きて居るが寧ろ不審に思はれる位であつた」と一九二七年(昭和二年)発刊『大西郷全集(伝記編)』にある。

また、この環境にも恨めしげな一言も発せず常に泰然自若としていたという。人間は生まれるとき親を選ぶことはできない。さまざまな親の環境で生まれ育てられる。成長する過程で親が病気になったり、亡くなったり、金持ちになったり貧乏になったり、親の環境に左右されてしまう。人間の子供は十四、五歳までは親の保護なしには生きていけない。アフリカの草原を走るシマウマの子供のように、生まれ落ちて二、三時間で立ち上がり駆け出すわけではない。これは人間の子供にとってはどうしようもないことである。一方、成人した後は、いかなる境遇であろうとも、また環境がどんなに目まぐるしく変化しようと、これらのことに左右されない自分を持つことはできる。そして自身で自ら望む環境に自分を置くこともできる。

しかし、多くの人々は人生の中で起こるさまざまな出来事に翻弄され一喜一憂する。松陰のように「富貴貧賤、安楽艱難、千百前に変ずるも、我はこれを持つこと一の如く」とはいかない。人間は損得利害の得失を第一に考えて行動する。それぞれの利害損得の基準を持つが、その得失は人とのかかわりの中で多種多様に変化する。人は自分にとって利(得)になることを得ようとし、害(損)になることは避けようとする。そのため、目前に現れた(また現れるであろう)利害損得によって、人生が波間に漂う木の葉のように、他人の利害損得、周りの人や環境の変化や突然の出来事などによって左右されることになる。

目前に起こることがたとえどのようなことであろうと、それに応ずる己の心は常にひとつのものである。「これを持つこと一の如し」である。松陰は野山獄にいるときも、松下村塾を開いているときも、また安政の大獄により江戸天馬町の牢につながれているときも、どう環境が変っても同じ態度でいた。これは西郷も同じである。不平不満を言ったら切りがない。恨みつらみは山ほどある。私は悪くない、あいつが裏切ったなど人のせいや環境のせいにして言い訳することは、探せばいくらでも出てくる。しかし、個を強くしようと思うならば、また西郷のように古今の聖賢や英雄豪傑のことを考えるならば、事象の変化によって己を変えない強さをつくり上げなければならない。

『手抄言志録』に次のような一節がある。「今日の貧賤に素行する能わずんば、乃ち他日の富貴きに、必ず驕泰ならん。今日の富貴に素行する能わずんば、乃ち他日の患難に、必ず狼狽せん」(現在の自分が貧賤の境遇にあり、その貧賤を自覚し安んじて道を行ってゆくことが出来ないならば、他日富貴を得た場合には必ずおごりたかぶるであろう。また今日の富貴の状態を自覚し安んじて道を行ってゆくことができなかったら、他日心配事や困難な場合に当たったら、必ずあわてふためくであろう)。

西郷自身この言葉を意識し他日あるを期して訓練修業を己に課していた。明治になって参議陸軍大将の職にあったときも、沖永良部島の囲い牢の獄舎に独り端座しているときも変わらない己を持っていた。それゆえ、明治国家で参議の顕職にあっても驕泰することがなかった。また、幕末動乱のさなか討幕という大仕事をするに当たっても、狼狽することなく泰然自若としていた。日本の命運を決すほどの激動の大変革期にまるで平時の日常の仕事でもこなすかのようになすべき仕事をしたのである。

西郷の野ざらしの囲い牢での生活は足かけ四カ月になろうとしていた。四方に戸のない牢舎は自然のままの状態といってよく、容赦なく風雨にさらされた。夜は夜で寝ておれないほど蚊や虫が自由に出入りした。西郷は蚊に刺されるままにしていた。後に西郷がフィラリアという風土病を発症したのは、このときの蚊が原因である。西郷の大きな体は日に日にやせ細っていき、髪と髭は伸びるにまかせ、厠が悪臭を放つ。

南国の酷暑による汗とほこりと垢が衣服と体に固まってこびりつき、なんともいえぬ異臭が漂う。その中で日のあるうちは端座して本を読んでいたという。「土持政照は、隆盛のこの状を見て、深く同情を寄せ、日に幾度となく見廻つて慰めるのであつた。隆盛も、土持の情誼厚きを喜び、種々の談話の中にも人としての心得などを懇に説き聞かす。その温乎たる音容は、肉落ち骨露なる人のやうでは無い。土持は、心のそこから、その高徳に懐いて、如何にもしてこの人を慰めんものをと、朝夕の食事などに島ながら、出来るだけの滋味を調へて進むるやうにした」

『大西郷全集(伝記編)』の一節である。南の島といえど十一月、十二月ともなると北風が吹き寒くなってくる。このままでは西郷は衰弱し牢死してしまう。役目がら西郷と接した土持政照は接するごとに敬愛の念が増し、深く尊敬するようになっていた。なんとしても西郷を助けてやりたいと思う一心から、遠島命令書の中にあった「囲い」という文言は、家の中の「囲い」であってもよいと解釈できることに気づく。

直ちに土持政照は自費で家を建てその中に「囲い」を造ることを代官に申し出て許可される。さっそく野ざらしの囲い牢は壊され、西郷は家の中に新しい「囲い」ができるまで附役の福山清蔵の役宅で生活することになった。土持政照は新築の工事をするとき、西郷を一日でも長く福山の家で生活させようと、一日でできる仕事に三日かけさせ完成を遅らせたという。後に明治になって沖永良部島での幽囚の生活が思い出されたのであろう。土持政照の厚情に加え、西郷が書と詩を習い「睡眠先生」「酔眠先生」と呼んで親交を深めた
川口雪篷との出合いは、牢屋の西郷にとって心安らぎ、楽しくもまた充実した日々であった。次の詩は一九六九年(明治二年)、一九七〇年(明治三年)ごろの詩である。

偶成(偶成)世上毀誉軽似塵世上の毀誉よ軽きこと塵に似たり眼前百事偽耶真眼前の百事偽か真か追思孤島幽囚楽追思しす孤島幽囚の楽不在今人在古人今人に在らず古人に在り

(世の中の評判というものは毀も誉も權威の無いもので塵のように上ったり下ったりして居る。眼前の百事皆偽か真か明かでない。誉て孤島に幽囚されて居たことを思うと却つて島の人にも真率なところがあつて楽しい事が少なくなかつた、あの当時を思えば全く時代が異つて居る感がする。今の人でない古人のようである)

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