西郷は明治天皇の個さえも強くしようとした
「明治十年の役のときに、岩倉公が、三条公の旨を受けて、俺に『西郷がこのたび鹿児島で兵を挙げたについては、お前急いで鹿児島へ下向し、西郷に説論して、早く兵乱をしずめて来い』といわれた。そこで、おれは、『当路の人さえ大決断をなさるなら、私はすぐに鹿児島へ行って、十分使命を果してご覧にいれましょう』といったら、岩倉公は『お前の大決断というのは、おおかた大久保と木戸を免職しろということであろう』といわれたから、おれは『いかにもさようでござる』といったら、『それは難題だ。大久保と木戸とは、国家の柱石だから、この二人は、どうしても免職することができない』といわれたので、『それはせっかくのご命令であるけれども、とてもお受けいたすことはできない』といって、おれは断ってしまった。
ところがあとで聞けば、このとき鹿児島では桐野が『旗揚げのことが政府へ知れたら、今に勝麟がだれかの密旨を受けて、やって来るであろう』と西郷に話したら、西郷は『ばかをいえ、勝がでかけてくるものか』といって笑ったそうだ。どうだ、西郷はこのとおり、ちゃんと俺の胸を見ぬいていたのだ。もはや二十年の昔話ではあるけれど、これらがいわゆる真正の肝胆相照らすということの好適例だ」これは勝海舟の『氷川清話』の中に出てくる話である。権謀術数家といわれた岩倉具視も、西郷を動かせるのはほかの誰でもなく勝しかいないと思ったのである。大久保と木戸の首を切るしかないという海舟の返事は、征韓論争から西南戦争にいたる事の本質を見事に突いている。三人集まれば派閥ができるといわれる。岩倉、大久保、木戸は大なり小なり似たもの同士である。
多くの人は好き嫌い、利害得失、理念思想など、さまざまな結合要因により、仲間となり同志と称し行動を同じくする。人類の原始狩猟時代、独りでは立ち向かえない大きな獲物を得ようとするとき集団化し、組織として行動するという習性によるものであろう。道義国家を目指し聖賢の道を行うという西郷の国家運営理念や経営手法は岩倉、大久保、木戸とは全く違っていた。一九二七(昭和二年)発刊の『大西郷全集(伝記編)』には、「君(明治天皇)を堯舜にすることを理想とした隆盛」とある。
欧米列強が覇を競う中で新生明治国家が万国と対峙しなければならないとき、西郷は天皇の個さえも強くしようとした。従来、天皇の周りに多く侍していた女官を廃し、武士階級から山岡鉄太郎、島義勇、村田新八といった硬骨で豪傑肌の人間を侍従とする宮中改革を断行した。新国家の元首は英明で英雄的であらねばと思ったのである。しかし、岩倉・大久保・木戸はそうは思わなかった。天皇は必ずしも英明である必要はなく、権威ある存在として普通であればよかった。倒幕を考えていなかった孝明天皇に接した岩倉具視、頑迷な統制主義者島津久光に接した大久保利通、自らの意見を述べず「そうせい侯」といわれた毛利敬親を主君とした木戸孝充。いずれも個性ある普通の君主に仕えていた。彼らにとって君主とは普通以上であればよく、とりたてて英明である必要はなかった。彼らが動かしやすいからである。
西郷の場合は違った。英明さは三百諸侯中随一と評され、その実力は家康に匹敵するといわれた名君島津斉彬に見いだされ、薫陶を受け愛情をもって教育されたのである。西郷にとって斉彬は主君である以上に尊敬してやまない師でもあった。そのような西郷が新国家の若き天皇に愛情を注がないはずがない。強く逞しいそして堯舜のような立派な君主になることを願ったのである。新国家の天皇観ひとつとって見ても彼らと西郷の間では大きく違ったであろう。また、国家経営においても「廟堂に立ちて大政を為すは天道を行ふもの」とする西郷は、岩倉・大久保・木戸と全く考え方が異なっている。
二年近く日本を空け洋行していた大久保・岩倉・木戸が帰って来たときのことである。西郷が留守政府を運営していた。人望力を持ち官と軍のトップである参議・陸軍大将の職にあって次から次へと改革を断行していた。このままでは政権への復帰はないと思い、すでに決定していた西郷の遣韓使節を絶好の政争の材料として征韓論争に引き込んだ。三弱(大久保・岩倉・木戸)が連合して政権から一強西郷の追い落としを図った権謀術数闘争劇が、明治六年の政変(西郷らの下野)である。