成敗、吾が愚を守る
「平生忠憤気 磅はく満寰宇 自得安心法 成敗守我愚」
(平生忠憤の気、磅はくとして寰宇に満つ。自得す安心の法、成敗吾が愚を守る)これは西郷の漢詩である。西郷は人の精神の中で「いきどおる」こと、「憤」を重視している。『手抄言志録』四十二項には「憤を発して食を忘る、志気是の如し。楽んで以て憂
を忘る、心體是の如」とある。
世の中の不正や悪に、めしを食うのを忘れるほど憤る。志気もこのように激しく強くしなくてはいけない。志気は放って置くと次第になえてくる。激しい憤りが必要である。また『手抄言志録』五項には「憤の一字、是れ進学の機関なり。舜何人ぞや、予何人ぞや、方に是れ憤」とある。ここでの「憤」は「なにくそ」という負けん気である。舜(中国の聖人)といえど人間である。目が四つあるわけではない。同じ人間である私が舜に及ばないはずはない。「負けてたまるか」という「いきどおり」が「憤」である。西郷は終生かわらずこの「いきどおり」を持っていた。斉彬に見いだされる前、郡方書役のときも藩の農民に対する苛政には我慢できないものがあり、農政における建白書を何度も提出したことが斉彬の目に止まったのである。
斉彬の命を受け将軍継嗣問題で活動していたときの幕府の「安政の大獄」という圧政、月照を伴って薩摩藩に帰ったときの藩の変節、月照との入水自殺、潜居先奄美大島における役人の横暴と苛酷な搾取、そして新国家明治政府高官の不正や汚職。これらの場面で西郷を突き動かしたのは、正義を好む気性や誠実な性格もあるだろうが、それ以上に不正や悪を憎む激しい「いきどおり」であった。普通この種の「いきどおり」は、年をとればとるほど減少していくものである。人生五十、六十年と生きて先が見えてくると憤らなくなる。
しかし、西郷は違っている。五十近くなって私学校を設立し、自ら筆をとって作成した学校網領には、西郷の正義への「いきどおり」が表れている。第一項の「道義においては一身を顧みず必ず踏み行うべきこと」という一文はまさにそれである。道義が行われていない世の中や道義にもとる行為に対しては、己の生死を顧みず必ず道義を行わなければならない。現代の日本でもそうであるが、会社や団体、学校などの理念や網領といったものは抽象的で当たりさわりのない言葉で書かれているのが普通である。しかしながらこの網領には西郷の思いが強く表れ過ぎており、さながら革命時の檄文のようである。これでは西南戦争の戦端も開かれるべくして開かれたと
いえなくもない。西郷自身にも責任はあるであろう。
しかし、その点、西郷は現在の日本の政治家が自らの不祥事を秘書や関係者のせいにして保身を図るようなことはしなかった。自らの生死を私学校に預けた。人に「道義においては一身を顧みず必ず踏み行うべきこと」と命じる以上、西郷自身必ず道義を行わなければならないのである。そうでなければ言行反した人間となってしまう。私学校生徒が政府の弾薬庫を襲撃したと報告を受けた時点で、西郷の生死は自分のものではなくなっている。西郷が唱える「道を行う者」とは「人間の生と死を飛び越える者」のはずだからだ。西郷自ら生死を飛び越えてこれを示さなければならなかった。 「平生忠憤気 磅満寰宇 自得安心法 成敗守我愚」
〔解説〕「磅」はみちふさがることを形容 「寰宇」は天地間のこと「起承二句は平素忠憤の気(忠義の心から起こるいきどおり)が磅として天地の間に満ちているというので自分の気概の盛んなることをあらわしている。転結二句の意は自ら安心のほうを発見した。他でもない成敗(成功することと失敗すること)を問わず自分の愚をよく守るに限る。即ち事の成敗を眼中におかずに自分の天真(天然自然のまま)を守ってさえおけば別に大言壮語する必要もなく、策略を用いることもいらぬ。いつでも心は平かであるというのである」(『大西郷全集三巻』)
ここで誤ってはならないのは「平素の忠憤の気が天地の間に満ちあふれるほどである」ということ。そうでなければ自得する安心の法もたいしたものではなく、小さな吾が愚を守るとなってしまう。普段から西郷の大きな体の中には忠憤の気がみなぎっていたのである。広い意味での「忠」とは自分以外の他に尽くすことである。「忠」といえば主君に対する、また天皇や国に対する忠義と取られがちである。しかし、西郷の「忠」は狭い考えの直線的な忠義では全くない。西郷をとりたてた、敬愛して止まない主君島津斉彬であっても、人の道において誤っていたら正すことが忠義と信じている西郷である。
後に西郷の思想となった「敬夫愛人」でも分かるように人を「忠」の対象に置いてはいない。人の正しい道を行うことに忠実になろうとしている。西郷の心の根底にあるものは道義である。『手抄言志録』四項には「凡そ事を作すには、須らく天に事ふるの心あるを要すべし。人に示すの念あるを要せず」とある。果たして「忠」とは一体どういう状態を指すのであろうか。斉彬に仕え、久光に仕え、薩摩藩のことを思い、そして欧米列強に侵食されようとしている日本国を憂えた。誠の「忠」とは何か。何のための倒幕であり、誰のためにする倒幕なのか。さまざまな人のかかわりと出来事の中にあって、誠の道を探究しようとする西郷の燃えるような思いを「忠憤の気が天地の間に満ち満ちている」と表現したのである。そして、西郷が得た「安心」が「敬天愛人」である。それは『遺訓』二十四項と二十五項に表れている。
つまり、「忠」とは自分以外の人間に尽くすことである。なぜならば、「天」は自分も他人も同様に愛する。「天」は自分であるとか他人であるとか区別して見ないのである。「天」がそうであるなら「天」と同じような行為を自分にも他人にも行うことが、「天」への「忠」(尽くすこと)であると西郷は主張する。「敬天愛人」の四文字は、西郷が見いだした究極の人間関係の法である。この考え
方は私学校網領二項に表れている。「王を尊び民を憐むは学問の本旨」で始まる一文は西郷が網領の想を練るとき、最初は「天を敬い人を愛する」と書きたかったのであろうが、そのままでは私学校の若者には理解できないだろうと、「天」を「王」に、「人を愛する」を「民を憐む(愛する)」に置き換え「王を尊び民を憐む」とし、維新後間もない当時の鹿児島の士族に分かりやすくしたと思われる。
続いて西郷は「然らば此天理を極め、人民の義務にのぞみては一向難に当り、一同の義を立つべき事」と書いている。「この天理を極めよ」とはどういう意味か。人の行うべき正しい道を探究し、己に課して体験していくことによって誠の道を究められる。「人民のためになすことは、すなわち己のためになすことである。我も他もない。そう感得するほど修業して強く大きくせよ。誠の安心の法とはこのようにして自得したものである。ひたすら自身を大きくせよ」。西郷はこう呼びかける。