西郷党BLOG

西郷魂 西郷吉之助 p041 第五章-01

一箇の大丈夫西郷吉之助

大勇

西郷の最大の特徴はなんといってもあふれるばかりの勇気である。何物も恐れない勇であり、道義にもとづく大勇である。西郷の事跡を見ていると、いつも命を五、六個は持っていて、一つ二つはくれてやるとでも思えるような、余裕のあるさらりとした言動である。多くの幕末討幕維新の志士と比べても、西郷には段違いの勇がある。

高杉晋作は「身命を軽んずるの気魄があればこそ国家のため忠も尽さるべし」と唱え、師の松陰同様命を軽んずる気魄にともなう直線的な勇を持っていた。西郷も青年時代や斉彬の秘書官として活動していたときは直線的な勇気であったが、五年に及ぶ島流しから戻った後の西郷は、胆力と度量を加え、どっしりと重みを増し厚みと広がりのある、文字どおりの大勇を身につけていた。そして、この大勇を事態の推移の緩急に応じ自在に使いこなすことができた。そのため、行動は果断に富み決断が早く物事の流れや勢いを制することができた。幕末接する人をして西郷を「大勇の人」と言わしめたのはこのためである。

だが、勇気は人間が本能のように生まれながらにして持っているものではない。自分の力で獲得しなければならない。西郷は勇のかたまりのように思われがちであるが、勇というものは養い育てて己の身につけなければならないと西郷自身も述べている。『遺訓』には「勇は必ず養ふ處あるべし。孟子云はずや、浩然之の気を養ふと。この気養はずんばあるべからず」とある。また、『手抄言志録』に「我無ければ則ち其の身を獲ず。則ち是れ義なり。物無ければ則ち其の人を見ず。則ち是勇なり」(人は無我の境地にあるときには、その身を忘れるもので、こういう場合はただ正義感のみが存在する。また、人に物欲の念がなければ、眼中人なしという状態で、た
だ存在するのは〈千万人といえども我往かんという〉勇気だけである)とある。これを見ても分かるように、西郷は義や勇の発生の根源を研究している。

人生のさまざまな局面でもう少し勇気があったらとか、勇気がないばっかりに後悔したとかいうことがよくあるものである。誰しも勇気を持ちたいと願う。勇気の必要性も痛感している。しかしながら、勇気とは実に持ちにくく身につきにくい。勇気とは、人が行動するときや決断するときの直接の原動力となるから、これを日々養い育てて正しく使えるようにしなければならない、と西郷は考える。勇気の基準はよこしまなものでなく、純正なものでなくてはいけない。大自然や宇宙に法則があるように、人間の普遍の正義として、人の道に厳然としてある道義に基づくものでなければならない。

これを孟子は「浩然の気」と呼んでいる。孟子はこの気は大気、宇宙空間に満ちて充塞している人間の普遍の正義の気であるという。この気はどんなものよりも強く、どんなものよりも大きなものである。人間は己の内にこの気を取り入れ養い育てることにより、真の勇(大勇)を持てる。この勇を持てば何ものも恐れず、何ものにも屈することなく人として真の強さを得ることになる。西郷の言う「この気養はずんばあるべからず」とはこういうことなのである。西郷自身この気を十分に養っていたから、幕末動乱、激動の時代に死生の間に出入りして時勢の大局を制する力量があったといえる。われわれが西郷に学ぶべきは、勇気は自然に備わるものではなく、養うべきものとしている点である。

初めは少しずつ小さな勇気を獲得して次第次第に大きな勇気を出せるようにしていく。多くの人は、勇気は初めから人に備わっているかのように思う。「あの人は勇気があるが、自分には勇気がない」と、それが天性のものであるかのようにあきらめている。一体勇気とは何か。坂本龍馬の語録に「人が皆、善をなすなら己れ独りは悪をなせ。人が皆、悪をなすなら己れ独りは善をなせ」という言葉がある。全員が一様に反対している中で自分だけが賛成したり、全体が決定し一定の方向に進もうとするとき、反対したりすることはなかなかできない。反対すると嫌われたり、のけ者にされたり、攻撃されたりもする。人はこれを恐れ多勢に従ってしまう。みんなと逆のことを独り行うには勇気がいる。だからこそ、普段からみんなと逆のことをあえてして己の勇を鍛えておけ、と龍馬は主張する。人生のさまざまな局面で他人に嫌われようと、のけ者にされようと、攻撃されようと、己の信ずる決断をしなければならないときはある。そのときの決断には勇気が必要となる。

いってみれば、人生は決断の連続である。次々と決断しなければならないことが起こる。人間は自分にとってプラスになること、安全・安心なこと、楽で得になることは容易に決断できる。しかし、これらと逆なことは簡単にはいかない。勇気をふるわなければ決断できないことも実際には多い。勇気とは自ら正しいと信じることを行動に移すための実行力ともいえる。己の正しいと信じることを、たとえ自身にとってマイナスになることでも、不利な条件下でも、損得を計算に入れずに行い得る行動力である。己の生死さえ計算に入れず行動しなければならないときもある。

西郷は「勇気を発する行動力の根源に人の道(道義)を置け」と説く。怒りや恨みを根源として発する一見勇気に似たような行動もある。しかし、真の勇気とは人の道(道義)を根源として発せられる勇気であらねばならない。人間の普遍の正義に照らして行う勇気こそが真の勇気(大勇)である。この勇気は何物も恐れず、何物にも屈することのない、強く大きなものである。これを日常の中にあって訓練し修業し己のものとなるよう養い育てよと西郷は呼びかける。また勇気には人間をさまざまな柵や頸木や欲望から解き放ち、自身を融通無碍げな自由人にしてくれるという、「勇気を持つことの効用」がある。

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