西郷党BLOG

宇宙に立つ 西郷吉之助 p056 第六章-05

一箇の大丈夫西郷吉之助

宇宙に立つ

「人間はこの大宇宙の外に出ることは絶対にない。しかしそれは人間が宇宙をその内に有するということでもある」
「人間はまず自分自身を発見し、次に一個人としての自分の義務を、万物と自分との関係を、万物を通じて表れている意識や英知との一体性を発見しなければならない」
人間はわずか七十年、八十年の寿命の生命体である。しかし、地球にいながらにして何億光年先に星雲があることを知り、宇宙の仕組みを解明しようとしている。また、すでに宇宙ステーションを建設し地球外へ一歩踏み出している。科学技術の発達は目覚ましく、特に宇宙開発、医学など各産業の分野で著しい。人類は産業革命以降、科学技術の発達により文明が急激に発展し拡大した。

しかし、この発展と拡大は外へ向うばかりで、人間の内なる宇宙の開発と発展はおざなりにされた。このため、人間の外へ向うエネルギーと内へ向うエネルギーが調和(バランス)を欠き、それによって人類は二度の世界大戦を経験させられたともいえる。二〇〇九年、現在の地球上を見ると、六十七億人全部が科学文明の恩恵を受けているとはとてもいえない。恩恵を受けているといえるのは半数にも満たない。相変わらず国家間の戦争や紛争も続いており、個人間の経済格差が広がっている。

人類はいまだ進むべき道を見いだし得ず混迷している。西郷は己の個を強く大きくそして高くしようとしていた。結局は、人類六十七億人も一人ひとりの個の集合したものである。そこに国家という区分されたものがあるだけである。個が弱く小さく低いから争いになりやすく、安易に己以外のものや他人に頼ったりする。そして、弱いゆえに仲間を求め組織をつくり、その安住の組織内で己の強さを出そうとする。裸の一箇の個としての強さや大きさや高さを求めようとしない。

地位や権力や名誉やお金を求める外向きのエネルギーはそれはそれでよいが、人類もそろそろ人間の内なる宇宙の開発にエネルギーを向ける時期ではないだろうか。外にある大宇宙と同様に人間の内なる宇宙もその広大さは無限大である。科学文明は外に向けて今後さらなる発展を遂げるであろうが、そればかりが一方的に拡大するのではなく、偉大な人間の内に存在する小宇宙を開拓することによって人として成長し、強くも大きくもなれるのである。この小宇宙にこそ、人の道、生きる目的、人間の生と死の意味、己と己以外の人間とのあり方など、人間として成長するために開拓しなければならないさまざまなものが存在している。この小宇宙を開拓し、人間の生き方や大宇宙・大自然と人間との係を人類に示し教えたのが、釈迦、キリスト、孔子であろう。個人はもっと人間としての偉大さを己の中に発見し開拓し、人間としての強さ、大きさ、偉大さを持つべきである。釈迦、キリスト、孔子だからできるのではない。誰しもできるものであり、己の内にある小宇宙を開拓することこそ、本当の意味で人間がしなければならない仕事である。

幕末の長州藩の財政家であった村田清風(一七八三年〜一八五五年 藩政改革の指導者)は富士山を見て次のように歌った。
「来てみれば さほどでもなし 富士の山  釈迦や孔子も かくやありなん」
釈迦、キリスト、孔子も我々とそう大差はない。彼らは学ぶべき師であり友である。我々一人ひとりが己の内なる宇宙を開拓し、彼らとは異なった人間としての生き方やあり方を発見しなければならない。

この無限なる宇宙にはその可能性が大である。釈迦、キリスト、孔子も、一箇の個を己の宇宙に打ち立てたといえる。西郷は「聖賢に成らんと欲する志無く、古人の事跡を見、迚も企て及ばぬという様なる心ならば、戦いに臨みて逃ぐるより猶卑怯なり」とまで言っている。人間の成長は己との戦いである。この戦いに克ってこの大宇宙に、天と地の間に、己という個を打ち立てよ。一箇の大丈夫西郷吉之助が願うことである。

PAGE TOP