西郷党BLOG

西郷と松陰 西郷吉之助 p015 第二章-01

一箇の大丈夫西郷吉之助

吉田松陰二十一回猛士

「二十一回猛士」は吉田松陰の号である。二十一回死を賭して行動をするという、なんとも凄まじいそして素晴らしい号である。西郷の号は、奄美大島、沖永良部島という南の島(洲)にいたことから「南洲」である。松陰の弟子・高杉晋作は、師に倣い自ら「東洋一狂夫」と号して、英国公使館の焼き討ちを行い、箱根の関所を「ここは天下の公道だ」と籠で乗り切るなど、幕末狂ったように暴れた。

松陰が野山獄にいたとき、同じ牢内の囚人たちとお互い得意な分野を順番に講義し合おうと松陰が提唱し、牢内が教室に変わった。松陰は『孟子』を講義することになり、このときの原稿を編集したものが『講孟余話』である。この中で聖賢への道について述べている。

西郷は自分自身について多くを語らなかった。明治の元勲としては一枚も写真がない。残っているのは書簡と詩(漢詩)である。『西郷南洲翁遺訓』は、教えを請いたいと鹿児島まで来た山形の庄内藩士たちが、西郷が折に触れ語った言葉を後に編集したものである。書簡は差出人により、本心が出せたり出せなかったり、相手のレベルに応じて自分の思想や考え方が理解できるかどうか考えて書かなければならない。

それに比べ、『遺訓』では、自分を慕い教えを請う若者に対してであるから、西郷は満腔の思想・哲学・政治観を大いに語った。しかし、それでもなお『遺訓』に盛んに出てくる「道というもの」については言葉が不足している。同じく人としての道を追求した吉田松陰の『講孟余話』の中では、道について次のように述べられている。

「道は則ち高し、美し、約なり、近なり。人徒其の高く且つ美しきを見て以て及ぶ可からずと為し、而も其の約にして且つ近、甚だ親しむ可きことを知らざるなり。富貴き貧賤、安楽艱難、千百、前に変ずるも、而も我は之を待つこと一の如く、之に居ること忘れたるが如きは、豈約にして且近なるに非ずや。然れども天下の人、方 且さに富貴に淫せられ貧賤に移され、安楽に耽り、艱難に苦しみ、て其の素を失ひて自ら抜く能はざらんとす。宜なるかな、其の道を見て以て高く且美しくして及ぶ可からずと為すや」

(人の人たる道は、高く美しく、また簡約で身近なものである。しかるに人々は、ただ道の高くかつ美しい面だけを見て、初めから自分にはとても及びがたいものであると思い、一面において道が簡約でかつ身近な、はなはだ親しみやすいものであるということを知らないのである。わたくしは、富貴貧賤、安楽艱難など、身の回りがさまざまに変化しても、ただ一つの態度でこれに対しており、いかなる境遇に居てもこれを意識せず忘れていたようである。これは、道というものが、簡約でありかつ身近なものであるからに外ならない。ところが、天下の人は、その心が富貴によって墜落し、貧賤によって変えられ、安楽にふけり、艱難に苦しんで、平素の心がけを失い、そのような混乱から抜け出ることができないでいる。それを見れば、人々が道を、高くかつ美しく、自分にはとても及びがたいものだと考えていることは、もっともであるといわねばならない)

松陰が言いたいことはこうである。仮に聖人の位置をプラスの十とする。普通の人の位置をプラスの五とすると、聖人と普通の人との差は五である。しかしながら、普通の人は日々の生活の中で富貴によって墜落し、貧賤によって変えられ、安楽にふけり、艱難に苦しんで、本来であればプラス五の位置であるはずが、自らマイナス五の位置まで下がる。結果として聖人との差は十五まで開いてしまう。この差を見て普通の人は「自分はとても聖人には及ばない。人の道は正しく素晴らしいものではあるが、われわれには真似のできないこと。聖人や特別な人だからできるのだ」と最初からあきらめているのである。

大体同じ人間にそう差があるはずがない。「立って半畳、寝て一畳、天下取っても二合半」という言葉がある。どんなに体が大きい人でも立った状態で畳半分からはみ出ることはなく、横になって寝ても畳一枚からはみ出ることはない。また天下人といえども一日食べられるご飯はせいぜい二合半である。目が四つあるわけではなし、同じ人間で大差はない。聖人や偉人や歴史上の英雄であってもあなたとの差はそんなにないといえる。

しかし、悲しいことに多くの人は、日常の富貴貧賤、安楽艱難に惑わされ一喜一憂し、道を行うことは身近にあり簡単なことであるのに、実践しようとはしない。そして道からますます遠く離れて、ついには聖人や偉人を歴史上の人物にしてしまう。西郷や松陰はこの生き方に真っ向から反抗している。

松陰の「二十一回猛士」がそれである。幕末、欧米列強が日本に迫る国難にあって、脱藩、アメリカへの密航(未遂)、浪人の身で藩主に「将及私言」を上書してとがめられたことの三回しか「猛」をしていない。まだ十八回残っている。あと十八回死を賭して国のために行動しようという思いを込めた号である。松陰は何の地位もなく罪人であったが、常に己をプラス五以上に保とうとしている。それゆえ、聖人や歴史上の人物のよいところも悪いところも見えてくる。幕末の国難にあって己が今何をなすべきかと考えたとき、なお一層の勇気を奮わなければならないと「二十一回猛士」の号をつけたのであろう。西郷も同様である。地位や立場に関係なく、たとえどういう境遇であろうと、常に孔子・孟子や古今の英雄豪傑をそばに置き、己の行動と比較していた。そして、己が道を行う者であるか否かのみを考えていた。

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