第五章 西郷と政治
西郷内閣
一八七一年(明治四年)十一月十日から一八七三年(明治六年)九月十三日全権大使の岩倉が帰国するまで約二年間は西郷を首班とする留守政府が政権を担当した。遣欧米使節団は岩倉、大久保、木戸ら四十八人という大陣容であった。西郷にすれば、政権発足まもないこの時期に幕府が結んだ不平等条約の国々を視察し、欧米の進んだ文化産業を見てまわらなくてはならないのかと思ったであろう。また、これだけの国費を使う必要があるのかと思ったであろう。このころの政府の意志決定は大久保と岩倉主導であった。
廃藩置県終了後、政府は直ちに(明治四年七月二十八日)太政官職制を制定し、中央集権化を図った。太政官は正院、左院、右院で構成され、正院を最高意思決定機関とし太政大臣に三条実美、参議に西郷、木戸、板垣、大限を選んだ。左院は立法機関とし、議長に後藤象二郎、副議長に江藤新平が任命され、右院は行政機関とし、外務、大蔵、兵部、司法、神祗、文部、宮内の八省を置き、外務卿に岩倉、大蔵卿に大久保が据えられた。この布陣を見ても大久保が新政府の台所である財務を掌握しており、岩倉とのコンビであることがわかる。穿った見方をすれば、外交など分からないと思われる公家出身の岩倉が外務卿に就任しているのは、はじめに岩倉を大使とする遣欧米使節ありきで人選されているように見える。また、大久保は外遊するにあたり、大蔵省を右腕ともいえる井上馨を大輔(次官)にして自分の留守を任せた。
日本の現代でもよくあることであるが官僚は、国民の利益と言うより、自分たちの省の利益を優先させたがる。この時期大久保は自ら率いる大蔵省に従来の民部省を合併させた。これに伴い、地方行政、一父通。通信や地方官の人事権といった民部省が持っていた権限までも大蔵省にあわせ持たせ、自らの権力基盤を強大にした。征韓論争後の内務省設立の手法と同じである。さらに岩倉、大久保ら使節団は留守政府に対して外遊中は重要な政策や人事はみだりに行ってはならないという十二カ条の約定書を結ばせた。ここにも、外遊している間に自らの権力基盤を失っては大変だという西郷とは似ても似つかない権力欲が見えるようである。
西郷内閣(留守政府)の陣容は、太政大臣・三条実美、参議。西郷、板垣、大隈、司法卿。江藤新平、外務卿・福島種臣、兵部大輔・山県有朋、大蔵大輔・井上馨であった。政治は生き物だということで、西郷は約定書を無視し次から次に法令の制定と社会改革を断行していった。その主なものは次のとおりである。
○政治。経済の分野¨太政官制の改定、兵部省を廃し陸海軍二省の設置、徴兵制の布告、地租改正の布告、国立銀行条例の制定、太陽暦採用、新紙幣発行、府県裁判所の設置、田畑永代売買解禁。
○学問・宗教の分野中学区制。義務教育制からなる学制、キリスト教の解禁、神社仏閣における女人禁制の廃止、僧侶の肉食・妻帯・長髪の許可社会・風俗の分野¨士族の帯刀義務を解除・断髪を許可。
○武士による斬り捨てを禁止、華族・士族。平民相互間の通婚の許可、四民平等による平民並代などの被差別身分・職業の解放令、水呑百姓などの解放・農民の職業自由選択の許可、人身売買の禁止。
地方官による権利侵害を人民が裁判所に救済を訴える制度の新設これらの西郷内閣の仕事は、わずか一年十力月足らずの間に行われている。まさに驚異的なスピードで改革がなされていった。このほかにも、 一八七二年(明治五年)には、『東京日日』『日新真事誌』『郵便報知』などの有力新聞が創刊された。福沢諭吉の『学問のススメ』、西周の『致知啓蒙』、加藤祐一『文明開化』などの啓蒙書が出版されたのもこの時期である。資料によれば、この間の西郷内閣の施政は「封建の身分制度を解体した」「封建の鎖から解き放たれ、社会一般に自由を謳歌する空気があふれた」「自由で清新な流れが人々を勇気づけた」と評されたという。
また、結婚や就業、土地売買、日本における信教の自由、平等の思想といった現在にも継承されている維新の近代化は、この時期に実施されたのである。
西郷は奄美大島に流されているとき、奄美にあった奴隷制度(家人・ヒザの制度)
の廃止に苦心していた。この家人制度が奄美で公式に廃止されたのは一八七一年(明治四年)、西郷内閣における被差別身分・職業の解放令の布告の結果である。西郷が奄美大島にいる間、この制度があることに心を痛め、自身でも世話になっている竜家の一族やそのほかの有力者を説得し、家人・ヒザの解放に努めた。代官所役人の木場伝内を協力者にして制度を廃止できるよう代官に働きかけてもいた。
西郷が一介の遠島人であり何も権限がないとき、自ら尽力し多数の家人やヒザを解放させたことも事実である。また、西郷政権であったときにこの制度が布告により廃止されたのも事実である。西郷が意図して行ったかどうかは資料に表れてないが、細かい心配りができる西郷であり、また「敬天愛人」の思想からしても、真っ先にこの制度を廃止して民を救おうと思ったはずである。
この時期、沖永良部島から土持政照が上京した。この様子を昇曙夢著『奄美と大西郷』から抜粋して紹介したい。
「ちようど征韓論のまさに勃発しようとする明治六年に政照が上京して、青山の邸に西郷を訪れ、祝意を述べたとき、西郷は襟を正し涙を垂れて、次のように言った。
『維新の大業はすべて、天下の尊王志士の心血の賜物であって、自分の微力はいささかも加わっていない。しかしながらもしもこの偉業にして自分の及ばぬ力もその幾分に加わっているとしたならば、これは決して自分の手柄ではなく、みな足下の功績である。自分が往年入牢中、足下が監視の役目を忘れ、生死を賭して重罪人たる自分を庇護された真情は、夢の間も忘れることは出来ないところである。もしもあの当時、沖永良部に足下が居なかったら自分は空しく牢屋の露と消えたであろう。自分が今日の地位を得たのは全く足下のお陰である』と、あらためて感謝の意を表したのであった」