西郷党BLOG

仕末に困る人 西郷吉之助 2p006-第一章_04

仕末に困る人西郷吉之助

第一章 仕末に困る人

一度は本当に死んだ人間

幕府の大老となった井伊直弼による安政の大獄(井伊直弼が一橋派と尊攘派を弾圧した事件)で西郷は、幕吏に追われる身となった。西郷とともに将軍継嗣問題で一橋慶喜擁立運動に尽力した京都の清水寺成就院の住職月照もまた、幕府の追及を受けるようになった。島津斉彬の依頼を受け月照は、西郷や仲間同志らを近衛家や朝廷の公家に取り次ぐ役目を果たしていたのである。世に言う安政の大獄の嵐が吹き荒れる京で月照が万一捕らえられては大変だということで、西郷は近衛忠熙に月照の庇護を頼まれる。

これより数力月前の一八五八年(安政五年)七月、西郷が師父のごとく慕い尊敬してやまない藩主斉彬が急死した。このとき西郷は殉死しようとしたが、斉彬の志を継ぐことが大切だと月照に流され殉死を思いとどまった。西郷は、先君斉彬と月照の関係を考えたら薩摩藩は月照を保護してくれるはずであると思い、月照を伴い鹿児島に帰った。しかし、鹿児島では藩主斉彬がすでに亡くなっていたこともあり、反斉彬派ともいうべき旧守派に政権が入れ代わっていた。そして前藩主の懐刀として活躍していた西郷をかえって邪魔もの扱いにした。また月照に対しては庇護するどころか幕府の嫌疑を恐れるあまり、関外の地である日向(官崎)への追放処分とした。西郷は月照とともに鹿児島から船で日向に出発することとなった。この間、西郷は藩の変節に憤り激しく抗議した。

薩摩七十七万石の大藩が幕府の威を恐れこんなに弱腰になることが情けなくもあり、藩の国事のために働いた義理もある月照に手のひらを返したような冷たい仕打ちをすることが許せなかった。斉彬が生きていれば、幕府など恐れるはずはなかったと思うと残念であった。また自分自身が近衛家から月照の庇護を頼まれたのに、それができなかったことに非常な責任を感じていた。
時は一八五八年(安政五年)十一月十五日夜(現在の暦では十二月十九日)、船は相当大きく、乗船した者は西郷、月照、月照の従僕重助、付き添いの足軽坂口周右衛門、そして西郷と親交がある築前福岡の志士平野国臣であった。日向にむけ船は夜八時ごろ出船した。一同に酒肴が出され酒宴が始った。船は真っすぐ北に進んでいる。

西郷と月照は期するところがあり、しばらくたって皆が寝静まるのを見計らい船首に出た。船上には船尾で舵を取る船子だけである。しばし船上にいたが、二人は向き合って互いの肩を手で組み合い、船子のすきを見て十二月の真っ暗な冬の海に身を投げ入れた。突然、ドツボンという大きな水音がした。「あっ」と船尾の船子が叫んだ。
水音と叫びを聞いた付き添いの坂口がはね起きて船上に出ると、西郷と月照がいない。「しまった」と坂日は事態を察し、とっさに身近にある船板をはがして海に投げ入れ、二人が飛び込んだ場所の目印とした。船は進んでいる。急いで帆綱を切り船足をとめさせた。船は引き返し、浮いている船板の周辺をぐるぐると探した。夜の海である。なかなか見つからない。だいぶ時間がたったが諦めきれずに捜し続けた。そうしていると、ゴボッゴボッと水音がして、突然海中から西郷と月照が肩を組み合ったままの姿で浮き上がってきた。「それっ」と急いで二人を船に引き上げたが、ともに呼吸は絶えていた。坂回は船から一番近い沿岸の村に船をつけさせ、住民をたき起こし、急いで火をおこし体を温めさせ、考えられるかぎりの応急の措置をほどこした。

一時間ばかりして若く体力のあった西郷だけがやっと息をふきかえした。しかし、月照はよみがえることはなかった。西郷三十二歳、月照四十五歳であった。西郷は自分だけ生き残ったことを恥じた。自分のみの自殺ならまだしも月照を道連れにしたあげく自分だけが生き返ったという事実に、耐え切れないほどに苦しみ、もがき、悩んだことであろう。周りの者は再び自殺をしまいかと気をつかい、西郷のまわりから刃物類を知られないように遠ざけたという。

西郷が生き返ったことは、偶然と偶然が重なった奇跡といえる。人間の運命とは、はかり知れないものである。仮に、日本の歴史をプロデュースする「天運」というプロデューサーがいるとしたら、幕末動乱、討幕、維新という大事業を演じきれるのは、西郷という役者以外いないと思い、生かしたのではないかとも思えてくる。しかし、それ自体もシナリオの中に組み込まれているのかも知れない。本当の意味で西郷はすべてを捨て去り、完全に一度死んだ人間であった。
再び生を得たということは西郷自身の再生である。そしてそれは新生西郷の生きる目的を明確にするためであり、またそうさせるために新しい生を得させたのであろう。
入水事件は西郷五十年の人生で最大の出来事である。それ以外の出来事、討幕の過程、維新の過程、西南戦争の過程は自らの意志で動くことができたが、入水事件は己の意志とまったく無関係に死の淵から引き戻されたのである。

西郷の言葉にこのようなものがある。「只今生まれたりということを知りて来たのでないから、いつ死ぬということを知りようがない、それぢゃによって生と死という訳がないぞ。さすれば生きてあるものでないから、思慮分別に渉ることがない。そこで生死の二つあるものでないと合点の心が疑わぬものなり」。
確かにただ今生まれてきたとういことは、誰にも分かるはずがない。三、四歳になる 困り、記憶の中におぼろげに存在していることが分かるぐらいである。そして現在ただ今、いつ死ぬかは分かりようがない。生まれるということ、生きるということ、そして死ぬということに関する西郷の死生観は、ここでは後にまわしたい。
一八五八年(安政五年)十一月十五日は、西郷にとってまさに第二の誕生であった。それ以後の西郷は、地球上の人間ではないかのごとく、あるいは他の者とは別種の人格であるかのごとく、一箇の大丈夫として五年後に歴史の舞台に登場してくる。

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