国家をして大丈夫たらしめる
国家の仕事とは、役割とは、そして責任とは何であろうか。
国家の構成員である一人ひとりの国民の義務や責任は憲法や法律で細かく取り決められている。しかし、そういう形では、国家の役割、義務や責任は決められていない。
国家の経営は政治家が行うものとされている。その政治家は民主的とされる選挙で選ばれなければならない。その選挙には何としても勝たなければならず、負けたら議員にはなれない。そうした選挙の弊害だろうか、ややもすると議員は多くの人から選ばれたという意識が強く、どこかで選民意識を植えつけてしまう。
議員バッチをつけることを目的とする政治家もいる。政治家の一家に生まれると、家業でも引き継ぐかのように政治家になってしまう。近年は家業のごとく政治業を引き継いだ人物が日本の総理大臣になっている。小泉、安倍、福田、麻生(祖父が吉田茂元首相)がそうであり、政権交代した民主党の鳩山首相も政治家一家である。
子々孫々に代々受け継がせる家業とでも思っているのであろうか。一家一族から総理大臣を出すべきであり、そのための選挙であり政治であると考えているのか。祖父が首相であったから、父が首相であったから、首相という父の実現できなかった悲願を果たしたいからだろうか。このような理由から、一億三千万人の日本国を経営する首相の座が特定の一家一族の目標となってはいないか。このような考えが心の中にあるのではないかと思われるような近年の日本の首相である。
西郷が理想とする政治家とは正反対である。政治家という職は労多くして益少ない。気苦労の多い割に合わない大変な仕事である。また、国民のためにという奉仕の精神がなくてはならないので、われわれ一般人には真似のできない仕事である。国民からその職に就くことが気の毒に思われるようでなければならない。「政治家という大変な職を自ら選んで下さってありがとう」と国民に感謝されるほどでなければならない。
これが西郷の考える政治家本来の姿である。『遺訓』では、政治家や公務員のあり方について次のように述べている。
「万人の上に位する者、己れを慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の基準となり、下民其の勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し」
(多くの国民の上に立つ者〈施政の任にある者〉はいつも自分の心をつつしみ、身の行いを正しくし、おごりやぜいたくをいましめ、むだをはぶきつつましくすることにつとめ、仕事に励んで人々の手本となり、一般国民がその仕事ぶりや生活を気の毒に思うくらいにならなければ政府の命令は行われにくいものである)
国家の経営は国家そのものの盛衰にかかわり、国民の損得に直結する最重要事項である。にもかかわらず、日本国家の総理大臣が偽装献金の疑いをかけられ、実母からの贈与であったとして贈与税五億七千五百万円をしかたなく納税するというのはどうであろう。
「命もいらず名もいらず官位も金もいらぬ人は仕末に困るものなり、この仕末に困る人ならでは困難を共にして国家の大業は為し得られぬなり」と主張した西郷の言葉が思い出される。「命もいらず」などと大げさな言い回しを使うのは、幕末明治維新の動乱激動の時代であったからだとか、西郷という独特の人間だからとか思う人が多い。しかし、総理大臣の職はそれ自体が国家の大業である。日本国家の経営者である以上、これぐらいの覚悟をもって職に就くのは当然と言わねばならない。
戦前、日本が太平洋戦争に突入したとき、何代も無能な首相が続いた。今日ほど首相に権限がなかったとはいえ、また軍部という強力な圧力団体が存在したとはいえ、彼らは西郷の言う「仕末に困る人」ではなかった。真に国家の存亡を考えることもできなかった。
一方、無能な総理大臣を選出し容認していたのは当時の国民である。西郷のような一箇の大丈夫たる国民や「道を行う者」である一般人は少なかった。当時の国民の多くは時勢や風評といったものに左右されやすく、国家権力や権威や組織・団体などの圧力に弱く、人間としての強い個を持ち得なかった。知識人や文化人はヒットラーのナチスに支配されていたドイツ国民同様に暴力に非常に弱かった。
今にして思えば、西郷が「道義においては一身を顧みず必ず踏み行うべき事」と私学校の網領に掲げたのは、一人ひとりの個が強くなければ何時の時代であっても、たとえ民主主義の社会であろうとも、その時代の政府や国家権力に対し何の抵抗も改革も改善も成し得ないことを示そうとしたのではないだろうか。一身を顧みないほどの覚悟と強さがなくては世に道義など行えない。また、「道義において一身を顧みない者」が多少はいなければ、国家権力の暴走を食い止められない。歴史が証明している。
しかしながら、何時の時代でも多くの人は道義は命を賭してでも守らなければならないとは考えていない。また、日々これを行おうともしない。一般大衆と呼ばれることに満足し、日常の生活に手いっぱいで、あえて己の個を強くしようとも思わない。
時代の波に翻弄され、己の幸不幸に一喜一憂するのみで他者を顧みる余裕もない。それでいて政治や社会は批判する程度で改革できると軽く考えている。いったん組織化された国家の権力機構は革命でも起こさないかぎり変わらない。西南戦争は見方を変えると義戦であった。征韓論争(明治六年の政変)後、大久保はビルマルクの政治手法に倣い、国家による独裁体制を敷き強化しようとした。
一八七七年(明治十年)の西南戦争は大久保政府の不当さへの抵抗であり、改革改善を求めるものであった。薩摩士族一万三千人が行動を起こしたのである。また、これほどの抵抗がなければ明治政府による独裁は長く続いていたであろう。西南戦争は日本史上、最後の国内戦争でもある。それ以後は日本人同士の戦争はない。西郷側の死者六千四百余人、政府側は六千八百四十余人に及ぶ文字どおりの戦争であった。西南戦争は戦前の大日本帝国憲法が唱える天皇主権や皇国思想のせいもあってあまり取り上げられないが、その後の日本に大きく貢献している。
この戦争は、源頼朝、足利尊氏、信長・秀吉・家康が一家一族や権力奪取のために起こした戦いとは異なる。政府に抗議するという行動が結果として戦争にまで発展したのである。この行為は政府を震撼させた。政府に在野の声を無視することの危険性を教え、後の板垣退助らによる自由民権運動の下地となった。また、その後の日本に国家権力や独裁者による極端な支配国家を生み出す素地を与えなかった。
昭和の時代に起こった五・一五事件や二・二六事件も見方を変えれば、小規模な西南戦争と言えなくもない。行動した青年将校の素志はいずれも純正であり、国家権力や社会の不当を正そうとするものであった。
われわれが西郷から学ぶべきことは、国家が栄えるのも衰退するのも、国家を経営する政治家に責任があることは言うまでもないが、それにもまして、われわれ一人ひとりの国民にも責任があるということである。国家は国民のレベルに応じた国家でしかない。国家をよりよくしようと思うならば、われわれ個人個人がよりよくなろうと願わなければならない。
一人ひとりが己の個を強く大きくすることを願い、日々の生活の中にあって道義を取り入れるならば、国家もまた自ずと正常に発展していくことになる。自己をよりよくしようと願うことは、国家もよりよくしようとする思いにつながる。西郷の思いは「己れを一箇の大丈夫ならしめ、国家をして大丈夫たらしめる」ことにある。われわれ一人ひとりが人の道を行い、己の個を強くたくましく発展させていく、その延長線上に国家の大丈夫が実現するのである。