友人、親友は歴史上の人物にすべし
釈迦やキリストや孔子を友人とするというのはどうであろう。西郷も松陰もこれぐらいの気概を持っている。何も友人がいない、親友がいないと悩む必要はない。歴史上にはさまざまなタイプの、それこそありとあらゆる生き方考え方の人物が登場する。彼らを友人親友とするのである。
歴史に残るほどの人間だから味わいがあって面白い。すでに死んでいるから、生きている人間のようにあなたを裏切ったりしない。まず、あなたとタイプが似たような人物を友人とするとよい。探せば歴史上の人物で「私と同じ考えを持っている」「生き方が似ている」「境遇が同じだ」など思わず親しみが湧き、うれしくなるような人物と出会うものである。行き詰まったり、どうしても解決できないことに出合ったりしたら、彼らに相談するとよい。なにしろ歴史に名を残すほどの人間である。さまざまな困難や苦労を乗り越えている。あなたの相談に応じてくれるものである。どうやって相談するのか。まず、彼らをよく知ることである。よく知れば知るほど良いところも悪いところも見えてくる。彼らの問題解決の手法も分かってくる。さらに苦悩も理解でき「私をよく知る者は歴史上の人物だ」とさえ思える。こうなってくると時代を超えた親友である。
友人がいない、親友がいないと嘆くことなどない。あなたのまわりの友人よりはるかにすぐれた友人がいる。歴史上の人物はあなたが十代であったら十代の彼らであり、二十代であれば二十代の、三十代であれば三十代の、歴史上の人物として、あなたと接してくれる。終生の友人となり得るのである。西郷も松陰も若いときから歴史上の人物を友とし師とし、彼らとともに学び競い励まし合っている。
次の文章は『手抄言志録』四十項であるが、歴史上の人物との西郷の接し方が分かる。
「孟子しは読書を以て尚友と為せり。故に経籍を読むは、即ち是厳師し父兄の訓を聴くなり。史子を読むも、亦即ち明君、賢相、英
雄、豪傑と相周施するなり。其れ其の心を清明にして以て之と対越せざる可けんや」
(孟子は読書することを、古人を友とするものであるといった。故に、経籍を読むのは、厳しい先生や父兄の訓戒を聴くのと同じである。歴史書や諸子百家の書を読むのもまた直接、賢明な君主や、賢い宰相や、英雄、豪傑と交際するのと同じである。であるから、読書に際しては、心を清明にして、書中の人物より卓越した気概をもって相対しなければいけない)西郷自身『遺訓』の中で「堯舜を以て手本とし、孔子を教師とせよ」と述べている。
これは、西郷に教えを請いに来ていた旧庄内藩の若者に対する言葉である。孔子を教師とする、気宇壮大な良い言葉である。人間はより良いもの、さらにより良いものを求めて進化してきた。歴史上の人物は人間進化の見本である。西郷はどうせ見習うなら最上のものを見習えと説いている。だから「孔子を教師とせよ」と命令形である。西郷自身の志の大きさや高さも、孔子、孟子レベルを目指していたから「教師とせよ」などという言葉が口から出てくる。
西郷という一箇の人間がいかに真剣に聖賢を目指していたかが、また歴史上の英雄豪傑を己の友として師としていたかが、『遺訓』や『手抄言志録』によく表れている。
西郷は当時の人間(若者)にも現代の人間(特に若者)にも言いたいのである。「人間は小さく縮こまってはいけない。志を壮大にして人間のもつ無限の偉大さに挑戦せよ」と。そして「己の個を強く大きくして他人に優しくなれる度量をもて」と。